★あの日のこと

2018年10月04日

御茶ノ水、最近になって何かしらのついでに良く回ってみる街である。
頻繁に行くところは楽器屋である。バンドを再開してからというもの、どうしてもギターやベースに目が行くようになった。
池袋や渋谷、秋葉原にも結構楽器屋があるのだが、数多くの楽器屋が軒を並べているので、比較しながら時間を潰すのにはとても都合の良いところではある。

学生の頃も良くこの街を歩いた。
その当時はまだ学生運動の名残である、大きな立看板が大学の校門のところに立てかけてあった。
楽器屋もあることはあったのだろうけど、あまり見て歩いた記憶がない。
JR御茶ノ水駅で降り、ブラブラと歩いて古本街や神田の方へ向かうのが恒だったような気がする。
自分は京浜東北線沿線の蕨というところに住んでいたから、どうしても秋葉原で総武線への乗換えが必要になった。
けれど、電車の乗り換えに慣れていなかったので、必ず秋葉原のホームで迷ってしまうのである。
どこをどう通るのか忘れたけれど、ホームに出てみればそこは浅草橋、両国方面である。
本当は御茶ノ水へ行きたいんだけれど、なぜか反対側のホームへ出てしまうのである。
あの、ホームが立体交差しているのは違反だよ。(汗)

ある日、御茶ノ水の段違いになったホームに下りた時、ずっと小さい頃の記憶が蘇ってきた。
5歳の時の記憶である。
実はそのホームで、総武線を止めてしまったことがあった。
親戚の葬儀のために、新宿から中央線に乗り長野へ向かう途中であった。
ひどく喉が渇いた自分は、水が飲みたいと親父に駄々をこねた。
そして、親父は水を汲みにホームへ降り、水を汲んだ後に降りた入り口とは別の入り口から乗った。
それを知らない自分は、不安になって追いかけて降りたんだろう。
その辺の前後は記憶が無いのだが、電車を止めて乗ったという記憶ははっきりしている。
それでもまぁ、許されてしまったおおらかな時代であった。(笑)


The End.


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2018年02月27日

バイクのこと

今はちょっと余裕が無いので乗ってはいないのだけど、自分はバイクも好きだ。
メカニック的なことは弱いので、どちらかというと乗るのが専門という感じ。
でも、プラグ交換ぐらいはできるけど。

初めてバイクに跨ったのはいつごろかな。
多分小学校の2年か3年ぐらいだったと思う。
小学校の職員用の自転車置き場にホンダのカブかヤマハのメイトが置いてあった。
それに跨って一著前に乗っている気になっている。
案外その遊びが楽しかったんだろうなぁ。こうして何十年も経った今でも覚えているから。

ちゃんとエンジンを回して走ったのは、多分中3の時かな。
その時は余り興味が無かったんだけど、1つ上の先輩が高校に入ってバイクの免許を取った。
そして原チャリに乗って友達の家に遊びに来た。調度自分も友達の家に遊びに行っていたので、彼の家の近所をグルっと走り回った。
一時停止で止まって、そこから発進するときに、前輪が浮き上がってウィリー状態になったのは怖かったなぁ。

自分の意思で、乗りたいと思って運転したのは高校に入ってからかな。
それでも、自分の高校はバイク免許は禁止だったので、こっそりと乗ったり工事中の堤防でモトクロスの真似事をした。
結構斜度のある盛土を一気に上ったりジャンプしたり。楽しかったなぁ。
ある時、堤防で斜面を登りきったときにアクセルを戻すのを忘れて、ジャンプしてしまったなぁ。そして転倒して自分の足の上でタイヤが回っていことがあった。
そのバイクは軽かったので擦り傷ぐらいで済んだから良かったけどね。
やんちゃだったな。

仙台に就職したときに、自分のお金でバイクを買った。
ホンダモンキーのクラッチ付きの中古を10回払いで。
原チャリだったけど、それで仙台の街中をあちこちと走り回った。
ローンが完済しないうちに、会社の入り口の歩道に乗り上げて滅茶苦茶になってしまってお仕舞だった。
それでも怪我は擦り傷程度だったから、幸運だ。(笑)

一関に戻ってきてから自動二輪を取った。
当時は中型という名称で400ccまでバイクに乗れる免許である。
必死になってお金を貯めて、250ccのバイクを買った。
そのバイク、レッドゾーンが17000回転なんていう、恐ろしいバイクだったなぁ。
でも、トルクは厚くて街中でも扱いやすかった。逆にアクセルを開けると結構早くて、平気で180km/hぐらいのスピードは出ていたな。
色々と走り回るのが好きだったので、そのバイクではよくツーリングに行ったり、峠に行ったりした。

また余裕ができたらバイクに乗りたいなと思っている。
大きなバイクでなくともいい、高速道路を走れる程度のバイクでもいいから。
そして、またツーリングをしたいなぁと、密かに企んでいる。(笑)

The End.


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2018年01月12日

松葉杖は秋ごろまで使っていたんじゃないかな。
夏の暑いときには、病棟の廊下の温度と気温・湿度の差で結露する。
廊下の真ん中に滑らないようにと絨毯みたいなものを引いていた。それでも松葉杖をその絨毯から外についた時は、情けないほどにつるっと滑って転んでしまう。
あの廊下は随分と硬かったなぁ。今のようにエアコンで空調をするのが一般的ならば、結露するなんていうことも無かっただろうに。(笑)

ギブスが取れて、最初の3日間だけは車椅子を使わせてくれた。
自分はずっと車椅子を使いたかったのだけれど、歩くことが最大のリハビリなので無理にでも歩く必要があったのだ。
自分の場合は、歩くときに足を保護するために松葉杖を使うのではなく、筋力がなくなってしまったので足をついたときに転ばないように支えにするために松葉杖を使ったのである。

長くなってしまった。
書いているうちに色々と思い出してきた。
楽しかったことや恥ずかしかったこと、淋しかったことが昨日のように思い浮かんでくる。
それを一つひとつ書いていると収拾が付かなくなりそうなので、この辺で自分の人生の中でも最大級のイベントだった小学校5年生の8ヶ月間を締めくくりたいと思う。

The End.


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2017年12月25日

それ以上に大変だったのがギブスだ。
麻酔が効いているうちは感じていなかったが、麻酔が取れた瞬間から、膝を曲げて固定されてる窮屈感が襲ってきた。麻酔後の痛みどころではない。人間はあちこちを動かしながら全体のバランスを保ち生きてるんだなぁと、今更ながらに思う。

自分の足も膝を90度に曲げ、しかも上半身は真上をむいて動かせない。
ギブスは胸の下から巻かれ、手術した右足を膝下まで固めていた。
今考えても恐ろしい。(汗)
ためしにやってみると良く分かる。腕も90度に曲げて、その姿勢を何時間も我慢する。さて、どうなるか・・・。

ギブスはどのぐらい巻いていたのか覚えていない。
最初の1週間は窮屈感との戦いだったが、その後に少しだけ動かせるようにギブスに切り込みを入れた。
そうしたら随分と楽になったので、余り苦しいという記憶はない。
多分6月ぐらいにはギブスをはずしたんじゃないかなぁ。

それからは松葉杖をついて歩いていた。
そしてその後に待っていたのは苦しいリハビリであった。
自分のリハビリは90度に曲げていた足を90度よりももっと深く屈折できるようにすることと、なくなってしまった筋力を付けること。
曲がらない足を少しずつ力を入れて曲げていく、これがもう涙が出るほど痛かった。

けれど、自分の痛さは、筋ジストロフィー症の症状の進行を遅らせるリハビリに比べればたいしたこと無いと思えた。
自分がリハビリを受ける時間帯に筋ジスのリハビリの人が来ていて、それを目の当たりにすると自分の思いは大したことが無いのだなと思わされたのだ。


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2017年08月19日

手術当日、病室で朝から手術の準備だった。
手術着に着せ替えさせられて、点滴をしていたが、手術室に入るのは自分は2番目で、時間的に少し余裕があった。
今はどうなのか分からないけれど、当時は自分も子供だったということもあってか、手術があるというのは入院していた病棟では一大イベントに近い感じであった。
手術前の準備には出勤していた病棟の看護婦さん総出で当たってくれた。普段は会話もしたことの無い婦長さんまで病室に来て励ましてくれた。伊藤婦長だったなぁ。

病室から手術室までは結構な距離があったので、ストレッチャーに乗せられ天井を見ながら連れて行かれた。
その後は全身に消毒液を塗られ、下半身麻酔をした。
麻酔が効いたかどうかは、注射針を注して確認していた。不思議なもので針が刺さっているのは目で確認できたのだけれど、全然痛くない。何も感じない。そして足も動かなくなってくる。
手術の時は、その光景が見えないように胸の辺りに幕が下ろされた。けれど、医師や看護婦の話しは聞こえていたし、手術用具のぶつかる音などもちゃんと聞こえていた。
そうこうしているうちに疲れてたのだろうか、寝てしまった。
目が覚めたときは病棟へ入っていく扉が開いたときだったな。

手術自体は大変だとは思わなかったが、それ以降ギブスが外される日までが大変だった。
まず手術初日から次の日にかけて、内臓が動き出してガスが出るまでは何も食べられない。
もちろん水をゴクゴクと飲ませてもらえるはずも無い。けれど、喉が渇いて仕方ないので、脱脂綿に水を含ませてそれを吸って喉の渇きを・・・。慰めにもならないな。(笑)


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2017年07月29日

病院食は夕方から出されたが、最初の夕食はうどんのようなものだった。
あまり美味しいとは思えず、多分少し残したのではないかな。
病室には5人の男子がいた。肺結核のために1年留年しているS君、ペルテスで名取から来ていたN君、同じペルテスで仙台市内から来ていたM君、やはりペルテスで後に自分の一番の友達になってくれたH・N君、一つ空いて自分である。
その1ヶ月もしないうちに脊髄カリエスで登米からT君が来て、病室は満員の6人になった。
最初は病室が時代劇の牢屋のように思われて、一つ年上のS君が牢名主に思えてしまった。
次の日からはそんなことは少しも感じなかったのだけれど、手術や入院生活への不安とホームシックとが交錯してしまったのだろう。(笑)

手術は5月の連休明け、5月6日だったなぁ。
火曜日と木曜日が手術の日になっているようで、連休明けということになったようだ。
5日子供の日は良い天気だった。
病室前は砂場や遊具などがあってちょっとした遊び場になっていた。
何を話したのかは覚えていないけど、隣の病室にいた脳性麻痺で入院していた男の子と話した。
その時のお日様と風は今でも忘れない。そして、明日自分が手術だという不安も忘れてはいない。


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2017年06月19日

前置きが長くなってしまったが、その入院生活で思い出深い出来事を書いてみる

小学校5年生の4月に入院し12月に退院した。
入院したのは4月6日、新学期に間に合うように朝から移動して入院手続きと入学手続きを行った。
地元の一関市立山目小学校にも、多分1日だけか登校したはずであるから、途中で転校という形になったのだろう。
その入院の日、親父とお袋と自分の3人は親父の運転する車で仙台へと向かった。
親父は何を勘違いしたのか、仙台市内の国道4号と45号の交差するところから東に向かってしまった。
途中で人に道を聞いて、また西多賀へ向かったのであるが、親父の勘違いは仙台の東にある多賀城である。
まぁ、そんなこんなで4号線の南下し、おそらく名取川に架かる名取大橋のたもとから西多賀に向かった。
記憶ではバイパスの方なのか旧国道の方なのかは定かではないけれど、橋の欄干には大きな石の球体が乗っかっていた。どちらだろう?

病院側からは○時までに来て欲しいとのことだったけれど、道を間違えたおかげでギリギリ滑り込みだった。
それが入院第1日目の始まりである。
その日のことは、やはりちゃんと覚えている。
朝の入学手続きの時に、隣の病室に入院する多賀城から来た女の子がいたのを覚えている。彼女は症状の軽い脊髄側湾症で夏ごろまでいた。
手続きが終わったころにお昼近くになったのだと思うが、食堂でラーメンを食べたのを覚えている。
おそらく手続きが終わった後に、検査をしたのだろう。
その後に看護婦さんと会い、病室でのことなどの説明を受けて、いよいよ病室へ、入院である。

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2016年10月10日

小学校5年生のことである。
おそらく人生2度目の入院生活だ。
自分のサイトにも時々名称が出てくる、宮城県仙台市にある「国立療養所西多賀病院」(現独立行政法人国立病院機構 西多賀病院)で「大腿四頭筋拘縮症」の治療で8カ月の病院生活を送った。

自分は小さい頃に体が余り健康ではなく、よく市内の総合病院にお世話になっていた・・らしい。そこで治療のために太もも(大腿四頭筋)へ筋肉注射をされていた。
それが原因で、筋肉が固まり成長するにつれて足を引きずり独特な歩き方をするようになってしまった。それが大腿四頭筋拘縮症である。
具体的な治療方法は理解していないが、手術で萎縮した筋肉を(どうにかする?)、手術の後にある程度の期間、膝を屈折させたままギブスで固定し太ももの筋肉を伸ばす、ギブスをとった後はリハビリにより筋力を付けることと筋肉を伸ばす・・ことが一般的ではないかな。
西多賀病院には一関からの子供たちが大腿四頭筋拘縮症のために断続的に何人も入院した。
自分もその中の一人である。

西多賀病院は脊髄側湾症(だったと思う)や股関節ペルテス、進行性筋ジストロフィー症の子供たちが大勢入院し治療していた。
そんなわけで、西多賀病院には分校として小中学校が併設されていた。現在でも小中学校が併設されているのではないかな。
病室がそのまま教室になるので、子供たちは楽しい学校生活も一緒に送れるというわけである。
そう言えば当時の病院の住所も覚えている。
「宮城県仙台市鈎取字紅堂13 国立西多賀病院 6下8号」である。
最後の6下8号は6病棟の1階8号室という意味である。
ちなみに下は1階で上が2階という意味である。(笑)


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2016年06月16日

2度目の入院である。
小学校の5年生の時に、仙台にある国立療養所西多賀病院(現独立行政法人国立病院機構 西多賀病院)という病院に8ヶ月の間入院していた。
かなり昔の事であるが、自分にとっての原風景というこの8ヶ月間に起きたこと見たことが、自分の人生を支えていると言っても大げさでは無いかも知れない。
色々と思い出すことも多いのだけれど、その中でもかなり印象的だった日のことを書いてみた。


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2016年05月18日

よく考えてみたら、自分はよく入院したなぁと思う。
産まれた時は病院だったけど、それは入院してたとは言わないよね。当然それは含めないとしても、今までに覚えているだけでも4回も入院している。
初めて(と言っても自分が覚えている内でっていうことだけど)入院したのは小学校の1年生の時だったか幼稚園年長さんの時だったなぁ。
病名ははっきりと覚えていないのだけれど気管支炎と聞かされていた。もっともそれも正確ではないかも知れない。
入院先はお袋の勤め先でも有る、国立療養所岩手病院。今ではなんていうのだろう。
小学校の1年生までは体が弱くて、しょっちゅう病院に通っていた。だから、その当時のことを思えば気管支炎で入院したとっても、自分自身としては驚くことではない。
どういう状況だったのかは覚えていないのだけれど、熱があり具合悪かったのは覚えている。
親父の車の助手席に、シートをフラットにして、そこに寝かせられ病院まで連れて行かれた。
車の窓から見えた電線がグルングルンしているぐらいめまいがしていた。
それが入院したときの記憶である。

どの位入院したのかは覚えていないのだけど、体調が良くなってきた頃に歯科に連れて行かれた。
総合病院なので当時は歯科医も常駐していた。
その先生は割りとお年を召されていたと思うが、公務員なのでまだ60前だったはずだ。
で、自分には小さいときから八重歯が有る。右上の糸切り歯が八重歯になっている。それをお袋が気にしていたのか、八重歯を抜くために歯科に連れて行かれた。
その歯科医が言った言葉は今でも忘れられない。
「新しいペンチだからね」
抜歯するときの医療器具を何と言うのか分からないけれど、その歯科医はピカピカに光ったペンチを見せてくれた。
腕は良かったのかどうかは分からないが、ものすごく痛かったことを覚えている。
そして苦労して抜いてもらったのだけれど、残念ながら永久歯の方は抜いたスペースには収まらずに、何十年も経った今も八重歯になっている。(汗)
抜歯のことが余りにも強烈だったので、その入院のことはほとんど覚えていない。そして、それから歯医者には行ったことが無い。
トラウマとでもいうのだろうか。


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2016年04月22日

確か小学校の6年の時の出来事だったと思う。

叔父が海外へ旅行してきた。音楽関係の研修旅行だったはずで。
でね、それでお土産をいくつかもらった。
小さいサーベルのペーパーナイフ、革製のしおり、そしてモンブランのボールペン。

そのモンブランのボールペンはお気に入りで、筆箱の中に入れて学校でも使っていた。
けれど、教室で自由時間に、友達がふざけてすっ飛ばしてしまった。
普通ならば拾ってくれば良いことなのだけれど、運が悪かったぁ。
その頃の教室は木造校舎でかなり古く、壁と床の所に手は入らないけど、鉛筆なら転がって入ってしまうような隙間があった。
お気に入りモンブランのボールペンはその隙間から落っこちてしまった。(汗)
必死になって隙間に手を突っ込んで、ボールペンを取ろうと思ったのだけど、全然ボールペンには届かなくて諦めてしまった。
今考えると、どうせ後数ヶ月で壊してしまう校舎なのだから、壁か床の板を引っぺがしてもよかったんじゃないかなぁ。
そうすればよかったなぁと思う。

そして、自分たちはその小学校を卒業してしまうわけだけど、その年の夏に、その木造校舎は取り壊されてしまったのである。(涙)

はぁ、あのボールペンはどっかへいっちゃったままなんだろうなぁ。
革製のしおりはどこかへ行ってしまったが、サーベルのペーパーナイフは今でも取ってある。
錆びてしまってペーパーナイフの機能は果たさないのだけどね。

The End.


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2015年12月01日

お気に入りだったのに失くしてしまった、お土産にもらったモンブランのボールペン。
ずいぶんと遠い昔の話だけど、ネットショップを見ていたら思い出した。


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2015年11月06日

結構長いスキー暦なのだけど、一つだけ達成していない夢がある。
カナダの氷河を延々と滑りたいと、いつ頃からか思っていた。
けれど、この夢はかなえられそうに無いと思い始めている。
さすがにもうガンガンと攻めるスキーができるほど、体力は残っていない。
おまけに心臓に爆弾を抱えてしまった。医者からはスキーは疑問符付ながら、大丈夫と言ってもらえたのだけど、自分のスキーでは、心臓は耐えられないのではないかなと思っている。
ただ単に行楽のスキーでは納得できない自分、ガンガンと攻めるスキーが好きな自分。やはりカナダの氷河無理だろうな。

The End.


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2015年10月13日

そして、もう1度は小樽。
小樽は初日にキロロというメーカー系のリゾートスキー場を滑った。天気は良くなかったが、変化に富んだゲレンデは楽しかった。
次の日の午前中に滑ったのは天狗山というローカルなスキー場。
けれど、そこの一枚バーンがすごい。かなりの急斜面でこぶも大きく楽しく滑れた。けれど、ジモティは違うんだね。そんなに難しくないバーンをガンガン飛ばす。幼稚園からご老人までガンガン攻める。それが北海道のスキーなんだと感心した。
もちろん下手なはずが無い。攻めることでスピードや雪面への対応を体で覚える。テクニックは自然と後から付いてくるのだろう。いや、むしろ頭でっかちなテクニックは要らないのかもしれないな。


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2015年08月31日

スキー場で酒を飲むという別の楽しみを知ったのは、会社に入って会社のスキーツアーに参加するようになってからだ。

会社のツアーでは3度ほど北海道にすべりに出かけた。
2連休しかなかったので、夜中の寝台列車に乗り朝一番でゲレンデ入り。
その晩は泊まって飲みに出る。そして次の日の午前中まで滑って、夕方の寝台に乗って帰ってくるという感じだった。
それでも北海道でスキーをするというのは、子供の頃からの夢だったので、そういうツアーの企画をしてくれた先輩には感謝している。

3度の北海道ツアーの内、2度はニセコである。
ニセコのパウダーを滑った事は一生忘れることのできない感激だった。
雪が軽い。何しろ腰以上深い深雪でも、平気で滑れてしまうのだ。そんな軽い雪は本州では味わうことができない。しかも雪の深さもこちらだと、せいぜい膝ぐらいではないかなぁ。


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2015年08月12日

本格的に滑ることに目覚めたのは20歳も過ぎてから。
同級生の中には何人かスキーが上手い奴がいた。
いつも一緒にすべりに行っていた友達の背中を追いかけるように、ゲレンデはもちろん人が滑らないような急斜面や深雪・悪雪を攻めるようになった。
今でこそモーグル競技がかなりメジャーになって、こぶを滑る人も多くなったけれど、当時はこぶ斜面を滑ることにもある種の快感があった。
もちろん、オフ・ピステを滑るためにはそれなりの技術も必要であったが。

まぁ、それでも結局彼の背中は越える事ができないまま、彼はスノーボードの世界へ移ってしまったのだが。
彼にもすごく感謝している。
いわゆる体育会系のスキーだったので、スキーを外すのはお昼時と帰る時。それ以外の時間は常に滑っていた。
今思えば、彼とすべりに行っていたときは、スキー場でビールを飲むなんていうことすらしなかったなぁ。


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2015年07月10日

当時、親父の方がスキーに夢中で、一人でリフトに乗れるようになると、自分はスキー場に着くなり置いてきぼり。後は一人でリフトに乗りゲレンデを滑り降りていた。
お昼の時間になると、どこからともなく親父が現れて一緒にお昼を食べていた。午後になるとまたどこかへ行ってしまっていたな。
そのことは別にどうとも思わず、そんなもんだと他の人が滑るのを見よう見まねで滑っていた。
ただ、当時の装備というのが貧弱だったので手足が冷たくなるのが辛かった。

今でも良く覚えているのは、マラソン大会のラジオ中継。
どこのマラソンだったかな?
大分別府とかそういう所のマラソンだったと思うけど、雪が多く降り積もったゲレンデでマラソンの中継を聴くということに何となく違和感があったのだろう。
同じ日本、九州だって岩手だって寒くて雪が降っているものと疑っていない子供の頃だったなぁ。

それでも、親父に強制的にせよスキーをさせられていたと言うことには感謝している。
なぜなら、そういう事がきっかけにでもならなければ、わざわざあんな寒いところへ行ってスキーをするということは無かっただろうと思う。


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2015年06月10日

スキーを始めたのはいつ頃だっただろう。
初めてゲレンデに行ったのは、残っている写真を見ると幼稚園の頃みたいだな。
そのころは、スキーブームというやつで親父とお袋がスキーをしていた。なので、ちょっとした旅行がてらにスキー場の近くの温泉に泊まってスキーという具合になったんじゃないかな。
その後は、いつも親父に連れられて行っていた。
子供を連れて遊びに行くというと、大義名分が立つのではないかな?
どこの家庭でもそうだと思うけど、お父さんだけが遊びに行くというのはかなり風当たりが強い。だから自分はいい出しに使われたのだと思う。
自分が自分自身で楽しくてスキーに行きたいと思うようになったのは、中学校の頃。それまでは何となく日曜日になると早起きさせられて車に乗っていた。


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2015年05月30日

何年スキー場に通っただろう。何度ゲレンデを滑っただろう。
自分は物心着いた頃からスキーをしていた。両親がスキーをしていたことや、家の前の畑の斜面が冬になると簡易的なゲレンデに変わったりしたので、自然とスキーをするようになった。
子供の頃からのスキーを振り返ってみた。

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2015年04月27日

2010/12/02(Thu)
朝、同室のCさん、Dさんに挨拶をしてみた。
ちゃんと返事が返ってきたので、ちゃんとした大人だなぁと思った。

Dさんは、前に一度入院してその時の仕事に関しての話しがあったのだが、仕事が変則で24時間勤務だという情報がうまく医師に伝わらずに、その後にまた体調を崩してしまい、再度の入院ということになったみたいだ。
なので、体調不良が解消されたら今日にでも退院するつもりらしい。
しかし、どこかに病気が潜んでいるのではないかと自分は想像している。
酸素を使っているので呼吸器系に異常があるのだろう。ただ、医師との信頼関係が無いので検査できないでいるのではないか・・・な。

今日はいよいよ退院であるらしい。
午後遅くなって今いそうだと心配していた整形外科の診察も10時過ぎには終わらせることができた。
また来週に診察を受けに来ることになっているので、そのときには整形外科のほうも受診することになる。

さて、そろそろ帰る準備をしておくかな。

それでは。

The End.


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2015年02月15日

2010/12/01(Wed)
昨日のAさんに続いて、今日はBさんも退院の予定だという。
昨夜、寝る間際にBさんとチラッと目が合ったので会釈をしてみた。
そしたら、今朝にはカーテン越しにおはようございますという挨拶がきた。
もちろんこちらもおはようございますの返事。
朝ごはんを食べた後に、Bさんの方から話しかけられた。
しかもちょっとした会話なんてもんじゃない。
15分や20分ぐらい話し込んでしまった。
Bさん、あぁ見えても自分と同じ年だった。
なんだぁ、Bさんは話し好きだったんだ。(笑)
ということで、Bさんは皮膚科を受診した後に退院ということになった。

で、自分も明日退院だという話しがすっかり出来上がっていて、担当医師から告げられた。
もう少し様子を見たいような話しだったので、今週末ぐらいかなと思っていたら案外早くなってしまった。
これはきっと上の方からプレッシャーが来たんだろうなという感じだ。
担当医の気持ちでも、もう少し様子を見たいようだけど、今の医療では発症後24時間に合併症などの問題が無い場合には、4日後に退院ということなのだそうだ。
こりゃ早過ぎるな。(汗)

午前中、薬が替わるということで看護士さんの説明を受けていた。なにやら注意事項があるらしい。
けれども、そのタイミングで心エコーの検査で呼ばれてしまって、どの薬がどうだということが分からないままだ。
検査室に行くと、研修医が待ち構えていた。(笑)
もちろんちゃんとした検査は検査技師の仕事なのだが、緊急で搬送されて来た場合には医師が検査をするということもあるだろうし、病棟での検査でも医師が直接検査するということもある。
なので、心エコーの検査もしてみたかったのだろう。
いくつかサンプルのエコーを確保したみたいだった。

午後からBさんが退院すると、この病室も自分ひとりになってしまうなぁなどと考えていたら、CさんとDさんが次々に入ってきた。
Cさんは他の部屋から移ってきて、Dさんは入院してきたらしい。
また、どちらとも会話が無い。(汗)
そしてどちらも、自分よりだいぶ年齢が上だ。
Cさんは入院慣れしている感じがあるので、もう長いこといるのかも知れないな。
Dさんは・・・よく分からん。(汗)


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2015年01月18日

2010/11/30(Tue)
まだ病室の人同士の会話が無い。(汗)
先客であるAさんとBさんとの会話も無いので、ちょっと不思議である。
なので、自分から会話を作れない。
無口のまま自分の相手はPCだけになっていく。

この日から病室内の歩行が許される。
しばらく寝てばかりいたので、さすがに立った時はフラフラした。
でもそれ以上に、膝がやばい感じである。(汗)

で、Aさんは予定通り退院。
後片付けをしたり、事務の人から支払い手続きのことを聞いている。
そして、BさんがAさんに話しかけていた。
Aさんの受け答えがあまりにも好青年風なにで、ちょっと驚いた。(笑)


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2014年12月12日

2010/11/29(Mon)
もう少し個室に入れたらいいのだけどと思いながらも、今日は一般病室への移動だという。
付き添いもいらないと言う。
カテーテルから48時間を経過したので危険な期間を脱出できたということらしい。
ホッと一安心、命拾いをした。もちろん完全にリスクは無くなったということではないのだけど。
ここから何日間はまた自由な時間を楽しめそうだなぁ。ということでPCの調達をした。
前の時はPCを使わなかったので活動範囲が狭かったから、今回はPCを使って文書を書いたりネットを見回りをしたりできそうだ。(笑)

で、移動した先は485号室。
今はどの病院でも大部屋は大体4人入っていて、カーテンで仕切られるようになっている。
仙台の時もそうだったし、ここでもそうだ。
けれど、この部屋はあまりにも・・・仕切りすぎ。
まず部屋に入ってすぐ左のAさんは、ほとんどカーテンを締め切っていて、こちらには全然関心を示さない。
何か今時のちょっと悪そうな感じのやつ。(汗)
左窓際にも一人Bさん、こちらは少し関心を示してくれた。
ちょっとはにかみな感じがして、話しかけづらい・・かな。

どうやらAさんは30日に退院するようだ。


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2014年11月19日

2010/11/28(Sun)
この日からベッドの上で起き上がってもよいという許可が出た。
そしてお昼も減塩食ではあるけれど、出るという。
麻酔を使っていないので、当然胃腸は動いている。
なので、腹は勝手に減っている。
ありがたい。(笑)
そしてある程度の寝返りを打ってもよいという。
これもかなり助かった。
何しろ寝返りを打てないのだから背中が痛くなっていて辛かった。
赤ちゃんが一番最初にする動作が寝返りという意味が分かったような気がした。(もちろんそんなことは無いのだろうけど)

それでも後はひたすら横になっているだけである。
何かしたいという意欲がわいて来ない。

しかしながら、ずっと伸ばしていたカテーテルを入れた右足の膝が少し痛くなっているのが気になる。
伸ばしていたからなのか、他に理由があるのか。



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2014年10月19日

2010/11/27(Sat)後半
その頃になるとカテーテルの担当医師やヘルプの看護士さんがそろって来た。
いよいよカテーテルが始まるのだが、股関節から問題の部位までチューブを送り込む。
この股関節のところを切開して入れるのだから、当然痛みが伴うが、それは局所的な痛み止め(麻酔?)の注射をされた。なので、カテーテルを挿入したり操作したりしている時の痛みは感じない。
挿入されたときに、何かが入っていくという感じしかなかった。

このあたりでいよいよ時間のリミットが迫ってきた。
心筋梗塞の場合は発症から6時間がゴールデンタイムであるらしい。この間に処置ができない場合は、本格的な心臓手術になってしまうらしい。
リミットまで20分という声が聞こえてきた。
なので、このときのスタッフも相当焦っていたらしい。冷静だったのはカテーテルの担当医だけだったか・・。
モニターが何台かあって、カテーテルの様子や心電図の波形などがそのモニターに映し出されることになっている。
けれど、なかなか心電図の映像がモニターに来ない。
あぁでもない、こうでもないと格闘してて、最後には一からつなぎ直すということになった。

このあたりまでは自分の意識も何とか持ちこたえていたのだが、何しろ酒を飲んで気持ち悪くて寝ていない。寝ようと思っても引き戻される。
ここに来ては尿道に入っている管が違和感を増幅させてくれている。
気分的にはドロドロな感じで、そろそろ寝かせてほしいなぁと思っていた。
カテーテルの処置がどのぐらい続いていたのか分からない。途中で半分寝た状態になっていたのだろう。

ただ、カテーテルを入れている足は動かすな、切開したところから雑菌が入らないように、手は足に触れてはいけないなどと言われていたので、必死にそれを守っていた。
しかし、動くなといわれるとこれほどしんどいことはない。
イライラもそろそろ限界だ。
しかもちんちんには違和感。
早く終わってくれと眠気と違和感と痛みとの闘いであった。

おかげさまで心臓には何箇所かの詰まったところがあり、吸引でそれを取り除き、問題の部位にはステントを埋め込み血流の確保ができている。
やっと楽になると思いながら、病室へ向かうためにエレベータに乗っていた。
あぁ、でもベッドは回さないで欲しい、目が回ってしまうから。(汗)

もうこのあたりから一般病室に移動した日までの間の記憶がはっきりしていない。
記憶というより時間と日にちの感覚が狂ってしまったかのようだ。
ナースステーションに近い個室に何日かいたのだけど、そのときの記憶がはっきりしない

前に入院したときと状況が違うのは、今回は病棟に研修医が何人か来ていて、自分は格好のサンプルだということ。
なので、担当医とは別に症状の質問にきたり担当医の補助をしたりしている。

担当医はO医師、担当看護士はM・O、岩手医大からの研修医


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2014年09月26日

2010/11/27(Sat)前半
この日の「朝まで生テレビ」は「日中関係と北朝鮮」がテーマで事前収録されたものをノーカットで流すという、「朝まで半生テレビ」であった。
なかなか興味深く見ていた。

何時ごろだっただろうか、妙に胸元が気持ち悪くなった。
ちょっと飲みすぎたのかなと思い飲むのを止め少し様子を見ていた。
それでも一向に気分は優れないので、本格的に寝てしまおうと布団に入った。
何て言ったらいいのだろう、強烈な胸焼け感とぎゅっと強くつかまれる感じだった。それでもまだこのときは悪酔いだと思っていた。
一度腹に入っているものを出してしまえば楽になるかと、トイレで戻してみた。
すっきりはしたが、例のむかつき感は消えない。
もうこうなったら寝てしまうしかないと、寝ることにしたのだが、やはりむかつき感が邪魔をして寝入ることができない。
その間際まで行くと、ぎゅっとつかまれた感じで眠りから戻ってきてしまう。

さすがにこうなってくると普通の事では無いと認識し始める。
父親が、やはり心筋梗塞で病院に運ばれているから、ひょっとしたら自分にも心筋梗塞が襲ってきたのかも知れないと思い始めた。

もう病院へ行くしかないな。
家人を起こし保険証やら診察券を用意して、岩手県立磐井病院の救急窓口へ連れて行ってもらった。

病院に着いて簡単な受け付けをした。
この時、少々待たされた。やはり救急車のほうが優先順位が高いらしい。
担当してくれた医師に症状を説明すると、すぐに心電図を取りエコーで心臓の様子を見ていた。その様子を他の意思にも確認すると、やはり間違いなく心筋梗塞だと判定される。
どうやら冠動脈に詰まりがあり、下側の方に血液が供給されていず動いていない部分があるということで、エコーのモニターを見ながら説明を受けた。

ここからが早かった。
すぐに心臓専門の医師スタッフが招集された。
心筋梗塞は発症からの時間が鍵だ。
スタッフが到着する間に処置室へ移動させられ、ストレッチャーの上で消毒が始まった。
この時すでに処置はカテーテルによる吸引と患部へのステントでの血流確保が決まっていたらしい。

まずカテーテルによる処置の場合は、何日か動けない状態が続くので尿の排出経路を確保するために、チューブをちんちんの先っぽから・・・どこまでだろう?
前立腺という言葉も出てきたので、そっち方面へ・・・膀胱まで行くのだろうか。
このチューブを挿し込むのが今回の中で一番痛かった。
想像してもらえると、その痛さがいっそう理解できるのではないだろうか。(汗)

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2014年09月03日

2010/11/26(Fri)
この日、いつものように会社に行き、いつものように仕事をした。
定時の22時よりも少し遅くまで会社に残ってシステムの稼動状況を眺めていた。
問題が無いことも分かり、帰宅することにした。
そして、いつものように夕食を食べお風呂に入った。ベースを弾こうかと思っていたが、何かやらないといけないことがあったので、それは見送ることにした。
ネットの見回りにも少し飽きたことと、テレビではテレビ朝日系の「朝まで生テレビ」が始まったので、それを見ながら酒を飲むことにした。



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2014年08月02日

2010年帰還、まさに退院した時は帰還したと感じた。
去年はは当たり年だったらしい。
2度目の入院である。しかも、たちの悪いことに心臓疾患、心筋梗塞である。
一関の岩手県立磐井病院に入院することになった。

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2014年06月26日

沖からは次々とうねりが入ってきて、自分に向かってブレークしている。
そう、自分がいたのはパワーゾーンだったのだ。
とにかくパニックになっては溺れてしまうと自分に言い聞かせ、とにかくブレークする波にもまれながら陸に着かないと。
波の立たないところは、沖に向う流れカレントがあるところ。なので、波のもまれた方が、はるかに安全に陸に近づくことができるのである。
なんど大きな波にもまれただろう。
必死に泳いで陸に着いたときは、力を使い果たしていた。(汗)

が、それを陸の上、車から笑いながら見ている人がいた。
一関から来ていた先輩のAさんとTさんである。
自分よりも波乗りでは、はるかに先輩である彼らには、今自分に起ったことなどはたいしたことが無かったのだろう。(笑)
すぐに別なポイントへ移動するからお前も来いとの命令だ。

おそらくあそこで断って帰っていれば、さっき起ったことがトラウマになって波乗りができなくなっていたかも知れない。
それを知ってか知らずか、AさんとTさんは強引に次のポイントで波乗りを続けるように誘ったのである。
入ったときは、沖から入ってくるうねりが恐かった。
ただただ、そのうねりをやり過ごすことしかできなかったが、しばらくして手ごろなうねりに思い切って乗ってみた。
選んだうねりも良かったのだろう、すんなりと乗ることができた。
ワイプアウトすることも無く、乗り続けることができた。
このおかげで、その後何年も海に通うことになるのである。(笑)

The End.



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2014年06月04日

もう一つの記憶は、大分自由に乗れるようになった頃の話しだが、普段のポイントがグチャグチャになっていて波乗りどころでは無い波だった。仕方がないので車で北に移動していくつかのポイントを回ってみた。最初の2、3カ所は全然ダメだったが、最後に行ったポイントがいい感じで割れている。しかも、美味しいことに誰も入っている人がいない。
早速着替えてボードを抱え砂浜に下りて波打ち際まで行ってみた。
波打ち際の割れるシュアブレークが、今まで見たことも無いぐらいに大きかった。自分の身長よりも遥か上のほうから海水が落ちてくる状態だった。
それでも、上から見た風景ではシュアブレークを越えるといい波が立っている部分がある。
何度かもまれながらも、そのポイントに入っていく。
沖を眺めながらボードにまたがり、ウエイティング。
すると沖からうねりが、しかもかなり大きい。
やばい。
沖に出てブレークする前にうねりをやり過ごそうと思って、必死になって沖に向かってパドルを開始。
しかしパワーゾーンを抜ける前に、その大きなうねりが自分に向かってブレークしそうである。
ドルフィンスルーをかましてブレークをやり過ごそうと、ボードの先端を水に沈めうねりに入っていった。
けれど、そのドルフィンスルーが甘かった。
うねりの下に入る前に浮かんでしまった。
自分も一緒に一回転してうねりがブレークしてしまった。
かなり深いところまで体が沈んだが、何とか水面に浮かび上がることができた。
普段ならここまでは良くある話し。
いつもと違ったのは、足に付いているはずのリーシュがはずれいて、ボードが勝手に陸に向かって流れている。
ボードさえ手元にあれば、それに捕まって休むこともできる。
が、そのボードが勝手に砂浜に流れ着いている。
ここからが大変だ。


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2014年05月09日


危険と隣り合わせの海、やはり何度か恐い目に遭ったことがある。
しっかり覚えているのは、まだ最初のボードだったから真っ直ぐにしかボトムに下りられなかった頃だろうか。
いつものポイントにうねりが入ってきていないので、隣のポイントへと移動した。
遠目に見ると、何にか先に入っていて程よい感じの波が立っている。
けれど実際に入ってみると、初心者の自分には扱いきれないような大きな波であった。
が、場所によっては何とかなりそうなところもある。
せっかく長い距離をパドルで移動してきたのだから、そこを狙わない手は無い。
首尾よく波を捕まえることができ、テイクオフした。
何かの拍子に転んで波の中へ、ワイプアウトである。

ワイプアウト自体は珍しくもなく、常にありうることであるが、その時のうねりが強烈だった。
波にもまれているが、中々な海面に浮かばない。
何度も上下がひっくり返りながらもがいていた。もちろんセオリーどおりボードが頭にぶつかるのをガードしながら、そして体を丸めて小さくなりながら。
しかし、段々と息が続かなくなる。
ううっ、息ができない。
それは何十秒だったか知らないが、とてつもなく長い時間のように感じられた。

でもこの日の波はパワーがあってすごくいい波だった。
自分がもっと上手くなっていれば、楽しく乗れる波だったのに。


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2014年04月08日

それがどのぐらい続いただろうか。
そうなると、何をやってもダメという感じである。
一緒に入っている友達からせっかく譲ってもらう波でも、上手いタイミングで乗ることができない。
う〜ん、何故だろう。

中々波乗りを体で覚えられない。
けれど、いつしかそのスランプも通り越し、日に1〜2本が3〜5本に増えるようになる。
そして狙った波を確実にサーフできるようになってきた。

自分たちが良く行った海は三陸海岸、宮城県気仙沼市より少し南下した辺り。
夏は良く霧が発生する。しかもほんの10m先も見えないぐらいの霧である。

お盆休みだったろうか、いつものH君と波乗りをしていた時、霧の向こうから「おお〜い」という声がした。
自分は海に入るときは当たり前だが眼鏡を外している。
なので、その声の主が分からないのである。
大分近づいてきたときに、ようやくその彼が店をたたんで奥さんの実家の八王子に行ってしまったマスターだということが分かった。
話しを聞くと、八王子から湘南方面へ毎週通っているのだという。
確かに波乗りが上手くなっていた。
そして夏休みなので、実家に里帰りして波乗りに来たのだという。
陸に上がると、相変わらずきれいな奥さんと娘さんがいたのだが、小さくて可愛かった娘さんが、すっかり大人になっていてビックリした。
子供は成長が早いのだなぁと思った。(笑)
自分の職場の都合でお盆に休めなくなってしまってから、彼には会う事もなくなってしまった。
ひょっとしたら今では自分のように海から上がってしまったかも知れないなぁ。


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2014年03月04日

そして、次の年にはポイントを少し北に変え、大きな波が入るところに移動した。
それから2年、何度海に通っただろう。
5月の末から12月の頭まで、多いときは週2回のペースである。

が、しかし、一行に上達しない。
波を捕まえてパドル、ボードーが走るとスタンディング。
一直線でボトムまで下りるだけである。
何故ボトムでターンできないのだろう?
やってもやっても、ただただボトムに一直線。

surf 何がきっかけだっただろう。
はっきりとしたきっかけは覚えていない。
いつの間にか、ボトムでターンしてリップまで帰ってこれるようになった。
そうすると、面白いようにボードは走り出す。
スピードが乗ってくれば、小さいターンは苦労なくできるようになる。

この頃には中古ではあるけれど、何本かのサーフボードを乗り継いでいた。
おおよそ乗りやすいとはいえないようなボードや、短くてそのポイントには向いていないボード。
多分、自分の体やスタイルに合わないボードに乗っていたからだろうか、楽しかった波乗りが一転して、スランプに陥る。
一日中海の上にいて、乗れない日が続くようになる。
全然波が取れないのだ。

波を取ることができれば、ちゃんとサーフィンになるのだが、ただただボードにまたがりプカプカと浮かんでいる日々。
2本も乗れれば、その日は大成功だ。(汗)


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2014年02月12日

一行は海に到着、合コンの続きで飲めや歌えの大騒ぎ。
そうこうしているうちに、マスターが波乗りを始めた。
また、そのボードを横取りしてH君が挑戦する。
横からM君が挑戦する。
そして、自分も初めて挑戦してみる。

とりあえず腹ばいになって波が来るのをめがけて言われたとおりにパドリングする。
一度や二度では簡単に波を捕まえることはできない。
波といっても、膝にも達しないような小さな波打ち際の波なのだが。

みんなと交替しながら、何度も挑戦する。
そうすると、コツをつかめたのか自然にボードが走っていく。
この感覚が、その後の長い波乗り人生の始まりなのだが、一方では苦悩の始まりでもあった。

運良くボードが走る感覚をつかむことができたので、もうこれは波乗りをするしかないと興奮状態である。
早速先輩から中古のボードを譲ってもらった。
これがかなりの年代物、ボコボコのボードだったが、2年も乗ることになった。
それは初心者用で少しサイズが長い、波を捕まえやすいボードだった。
初めてポイントに出たときは、もちろん足がつくはずも無いところなのだが、海水浴場と隣りあわせなのでなんとなく安心感はあった。
波を捕まえやすいボードだったおかげで、ポイントに出て2回目で立つことができるようになった。
ただ、波乗りは立っただけではボードが失速してしまうから、ちゃんと波乗ったとはいえないのだけれど。



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2014年01月15日

波乗りを再び意識し始めたのは、仙台の会社が傾きかけ、実家の岩手一関に戻ってきた頃だった。
自分のスキーの師匠でもある友達のH君が、先輩と波乗りを始めるかどうかの頃に、あるスナックの飲み会に行った。
それが尚一層、自分にとって波乗りが身近に存在した瞬間だった。
それは今はもうとっくに閉店してしまった「SmalTownTalk」というスナックなのだが、そこのマスターが波乗りを始めており、H君も巻き込まれているという感じだった。
他にもスキーの日帰りツアーなんかもあったりして、自分もちゃっかり一緒に参加していた。
その飲み会、男女合わせて20人ぐらいが来ていただろうか、今で言う合コンなのだが、たいがいは顔見知りの常連さんばかりである。(笑)

その飲み会の夜というか明け方、何人かで海に行こうということになった。
もちろん自分が行かないはずが無い。
ただただみんなと騒ぎたいだけなのだ。
車を何台で分乗しただろうか、自分はすっかり酔っ払っていたので、車は運転していなかったかも知れない。
マスターかH君の車に乗っていただろう。
そのマスター、その時ちゃっかりサーフボードを屋根の上に載せていた。
今でも思い出すがホンダア・コードのワゴンだったな。(笑)


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2013年12月27日

波乗りに興味を持ったのは二十歳ぐらいのときだったかなぁ。
BIG WEDNESDAYという波乗りをテーマにした映画があって、それを見たのがきっかけ。
でも、当時は埼玉の蕨に住んでいた自分にとって、海はものすごく遠いところの感じがしていた。また、どうやって波乗りを始めていいものかも、まったく検討がつかなかった。

自分にできることといえば、神田辺りのスポーツ品店からサーフボードメーカーのTシャツを買って着るぐらいだった。(笑)
思えば、そのTシャツを売っていた店の人に、どうやって始めていいのかを相談すればよかったのだが、あまりにも海が遠い感じがしていたので、その相談という発想すらも無かった。

就職で仙台に来たときに、会社の近くを通る道がサーフスポットの「仙台新港」への抜け道だったらしくて、時々サーフボードを屋根のキャリアに載せた車が走っていった。
けれど、仙台に来た頃には波乗りのことなど頭の片隅に追いやっていた。
当時は車とスキーが自分の頭の中の大半を占めていたのだ。(汗)


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2013年12月12日

あの時の一言のおかげで、またバンドでベースを弾くことになった。
それはかなりの年月を経ての出来事だったので、とりあえず何をしたらいいのかさえ分からなくなっていた。

hama006そう、とりあえずベースだ。
物置にしまいっ放しになっている19歳の時に買ったベースはまだ音が出るのだろうか。

恐る恐るシールドを挿し、アンプの電源を入れてみる。
つまみをいじったときにちょっと雑音が出る程度、それも使っていれば自然と収まってくれるだろうの程度。


メンバーとの初めてのミーティング。
どんな音楽をやっているのか、メンバーはどんな感じなのか。
hama007そんな事を気にしながらメンバーが集まっている所へ行ってみたが、何も構える必要もなかった。
スンナリとバンドの中に入ることができた。

初めてのミーティングで、ライブへの出演が決まり、すでに曲も選んでいるという。

けれどメンバーは全員社会人。

しかも色々な職種のメンバーなために、練習のために集まれるのがライブまでに2回しかなかった。
それでも、何とかあわせることがで、ライブも無事に終わった。

hama008それから、このバンドではメンバーの追加や入れ替えがあり、最終的にはドラム、ベース、ギター、キーボード、ボーカルの5人におさまった。
そして、ギターは念願だった高校の時のバンド「私文バンド」で一緒にやった友達とまたやれることになった。
その5人でいくつかのライブに出演できた。

しかしながら公務員のメンバーが転勤で一関を離れることになり、しかも翌年には海外への赴任が決まってしまった。


そこで活動を停止するのはつまらない。
The Gatesをスピンオフして、新しいドラムスを探してメンバーに加え、BackDoorを結成した。
hama009新しいドラムはボーカルの大学の同級生で、大学のサークルでもドラムを叩いていたという。

新しいバンドになって、音楽の方向もがらっと変わった。
それまでは70〜80年代のハードロックをやってきたが、新しいバンドでは新旧のブルースをやることになった。
ずっとやりたかったブルースをやっと演奏できるバンドになった。

そして、結成2ヶ月で待望のライブイベントに出演することができた。

この後、このバンドはどうなるか分からない。
ずっと続くかもしれないし、メンバーを交代することになるかも知れない。
hama010はたまた解散してしまうかも知れない。

そんな事は、誰にも分からないことだけど、そんな先のことを心配しても仕方ない。
今は今でしかない。

今は今の音を出すしかないのだ。


The End.


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2013年11月25日

高3の10月、受験時期に入ってしまったのでバンド活動を停止することにした。

高校を卒業した後、同級生は大学のサークルつながりでヘビーメタルのバンドに参加していく。
ヘビーメタル自体は嫌いではなかったが、演奏する音楽としてはどうしても着いていけなかった。
また、自分自身のベースにも東京でバンドを組んでやっていくという自身も持てなかった。
(最近になって高校時代の音源を聴いた見たが、それほど酷い演奏ではなかった。思い切ってサークルのバンドに飛び込んでいけばよかったなぁと後悔した。)

けれど、どこかにベースを弾きたいという欲求だけは、どこかに持っていた。
高校卒業前に改造してしまって弾けなくなってしまったベースの替りを1年払いのローンで楽器屋から衝動的に買ってしまった。
また、音楽雑誌の売買欄から欲しいギターを見つけて、横須賀の高校生から中古のギターを買ったりもした。

そういうわけで、個人的に一人で悶々とギターを弾いたりベースを弾いたりしていた時代が何年か続いた。
そして、段々音楽を演奏するということからフェードアウトしていき、ベースも物置にしまってしまった。
それからは、もっぱら音楽は聴くだけになってしまい、社会人も後半へと突入してしまう。

何年前の話しだったろうか。
人事異動の時期の2次会での席でのことだった。
ある後輩がバンドでボーカルをすることになったのだが、ベースがいないという話しになった。
その彼の隣に座っていたのが、大学時代に軽音でベースを弾いていた。
そういうわけだったので、バンドに入ってベースを弾かないかと、しきりに誘っていた。
なぜか誘われた彼は固辞していて、その話しは成立しなかった。

少し経ってから、俺の隣に座っていた子が「○○さん、ベース弾けばいいじゃん」と俺に話しを振ってきた。
「えっ、弾いてもいいよ」

これでこの前まで活動していた「The Gates」にベーシストとして参加することになった。


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2013年10月28日

高校3年生。

校内でのバンド活動はどうだったか。

学校内では「私文バンド」として活動していた。
メンバー全員が私立文系のクラスだったのが名前の由来。

活動といってもライブは体育祭の後夜祭と文化祭しかなのだけれど。
ライブのほかには好きミュージシャンのレコードを掛けてDJごっこをして録音したり。

この年の文化祭では、勝手に教室を借り切り、暗幕を張ってライティングして。
前の年の文化祭と違ったのは、ゲストメンバーにピアノやギターを曲によってフィーチャリングしたり、ベースとドラムスが楽器を持ち替えたりといった余興もした。
このライブも同級生をはじめ、後輩たちで、満員。
部屋の中は、今で言うクラブ状態だった。

けれど、次の日に生活指導課に呼ばれて説教されたのは、何を隠そうこの私です。(汗)


実はこの後に、大きな事件が起きる。
10月だったかなぁ。

当時、地元の高校生の中ではカリスマ的だったギタリストが自宅で自殺をしてしまう。
彼は別の実業高校に通っていて、市内では名の通ったバンドでギターを引いていた。
白のストラトキャスター、グレコのコピーモデルであったけれど。

高校の近くだったから、学校をサボっては何度も遊びに行っていた。
事情は色々とあったのだろうけど、その衝撃はすごかった。
その手段を選ぶしか道は無かったのか・・。


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2013年10月12日

高校3年生。

この年が10代では一番音楽的に充実していた年だったかも知れない。
受験生だったにもかかわらず、この年の10月までしっかりと音楽活動をした。

校外のバンドは高1のときから「一乗寺」、これはメンバーのギターから中学のときにギターを教えてもらっていたが、その練習場所が自宅近くの一乗寺というお寺だった。
無人のお寺だったので、アコースティックぐらいならいいよと管理していた人から許可をもらっていた。
3年になって、高専の同級生のバンドにベースとして加入。このときのバンドの名前が「Crysis(クライシス)」。
また、高校の中で活動していたバンドは「私文バンド」といった。

2:10の活動では定期的なライブに2,3度出演をしていた。
あるミーティングでは次回のライブはオリジナルを必ず1曲入れるという課題があった。
それまではずっとコピーばかり弾いていたが、ロックンロールの曲を作った。
どんな曲だったかすっかり忘れてしまったが、作詞作曲を手がけた。
また、女性の先輩とのコラボレーションで彼女が詩を書き俺が作曲した曲も別のライブの時に弾いた。
このときの曲は「オレンジマーマレード」という名前だったのを覚えている。

その後、夏を少し前にしたときだったと思うが、「一乗寺」を解散し「Crysis」に移った。
こちらのバンドは、それまではどのような曲をやっていたのかはっきりとは覚えていないが、俺が加入してからは「甲斐バンド」や「カルメンマキ&OZ」などのコピーを主体としたバンドだった。

このバンドでははっきり覚えているライブが2つある。
その一つは夏まつりに連動して磐井川の堤防で行われたライブイベントへの出演。
そして、NHK−FMでローカル局の公開収録への出演である。
どこかに音源が残っていれば、すごく懐かしいのだが。。

そして、このFM放送の公開収録が高校生最後のライブであった。


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2013年10月02日

高校2年生。
この年に音楽の路線変更をする。
聴く音楽も演奏する音楽も、それまでとはまったく違うものになった。

それまでは四畳半フォークの流れを汲んだものや、叙情的なフォークが好きで聴くのも弾くのその路線だった。
けれど、この年からそれまでちょっとは聴いていたハードロックに浸ってしまう。
それと同時にブルースやブルースを基調としたとしたロックにも傾倒していった。

バンドで大きく変わったのは、それまでアコースティックギターとベースという構成だったのが、ドラムを加えて本格的にロックバンドになったことだった。

また、この年から学校の外側では2:10に所属して4人構成、高校の中では別のメンバーで5人を主体として演奏する音楽によってはギターを加えたりキーボードを加えたりした構成。
いずれもハードロックやブルースを演奏するようになった。

hama001高校の中でのライブは体育祭の後夜祭や文化祭のステージがメインになった。
高校にはロックバンドを受け入れてくれるようなクラブや同好会は無かった。
そんなわけでアンダーグラウンド的な同好会でやることにした。
高校には視聴覚室という普段は使われていない教室があって、そこをバンドの拠点にした。
時々使うこともあるので、ライブの時だけ機材を持ち込んで使ってしまおうということにした。

体育祭の後夜祭のほうは、もちろん屋外で弾いた。
3年生のバンドと対バンだったが、2年生のうちらのバンドのほうがはるかに高いレベルだった。
しかしながら夕方から雨になってしまい、楽器が濡れて大変な目にあった。
借りてきた濡らしてしまったドラムをドライヤーで乾かしたりした。

文化祭はなぜ使うことができるようになったのか今でもわからないのだが、視聴覚室を独占して機材を持ち込み、暗幕を張ったりしてライブ会場にしてしまった。
このときは、対バン無しのまったくのワンマンライブだった。

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2013年09月22日

当時、市内にはもちろんいくつかのバンドがあってそれぞれに活動していた。
あるライブをきっかけに、3人組(ギターx2、ベース1)のバンドがお気に入りになった。
彼らはすでに働いており、自分の会社をもじってバンド名にしていた。

何度かライブを見に行くうちに、彼らと仲良くなった。
そして、自宅まで遊びに行けるほどになった。

自分はといえば、無事に高校に合格して、これからまた音楽を始めようかというところだった。

中学のときに友達と一緒にやっていたバンドは解散して、最初にギターを教えてくれた別の友達と、またあまり話しをしたことは無かったが、ギターを弾いていると噂に聞いていた同級生の3人でバンドを組んだ。
アコースティックギターx2、エレキベース1という、当時の一般的な構成だった。

バンドを組むと同時に、市内の高専生が中心となって活動していた2:10というサークルにも加入した。
これによって、定期的なライブへの出演ができるようになった。
また、自分にとっては苦痛でしかなかった高校生活の唯一の心の拠り所になっていった。

加入したての頃の持ち曲は今では全然覚えていないが、中学のときからお気に入りだった社会人バンドからプレゼントされた曲を必ず最後に演奏するようになった。

初のライブは6月ごろだった。
ポスターは手書きのデザインを画用紙にコピーしたものだった。
記念にとしばらく自分の部屋にも貼っていたものだった。

そして、その年はクリスマスコンサートにも出演することができた。
このクリスマスコンサートの日は、何十年ぶりかの豪雪で、市内は白一色だった。
終わって打ち上げで飲んで、雪が積もった街をメンバーと歩いたのを記憶している。

高校1年の表向きの音楽活動はこうして過ぎて行った。

高校になって加入した2:10は、高専生が中心になって運営されていたが、市内にいくつかある高校の生徒たちも加入していた。
そして、毎週土曜日の2:10から、今は一関文化センターになってしまった、旧一関小学校体育館をそのまま利用した一関公民館の2階でミーティングが行われていた。


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2013年09月13日

hama004いよいよ本番。
今年のライブは体育館のステージ、去年のような小さい部屋ではなく、全校生徒が集まれるような、俺にとってはとてつもなく広い場所。

アンプやPA類は前日までに知り合いの知り合いから借りていたものを搬入してセッティング。
出演バンドは確か2つか3つのバンドだったような気がする。

さすがに大勢の前なので緊張したんだろうなぁ、どのような演奏だったのか全然覚えていない。
ただ、1曲目の出だしにベースの音量が大きすぎて、ボーカルから「高い」と言われたことは覚えてる。(笑)

何やかやで5曲ぐらいやったんじゃなかったかなぁ。。

メンバーは
ボーカル   :Y・S君
リードギター :S・M君
サイドギター :H・K君
 &コーラス
 &ハーモニカ
サイドギター :Y・O君
ベース    :自分。

hama005ちなみにリードギターは、今のバンド「BackDoor」のリードギターでもある。(笑)

この時の音源は残っていないが、写真が残っている。
ハチマキなんか巻いて、とても恥ずかしい格好であるが、あの時は格好いいと思っていたんだろうなぁ。。
恐ろしくてとても、アップはできない。(汗)

このライブの後の音楽活動はほとんど覚えていないが、一度だけ人前で演奏した。
転校する同級生の送別会でH・K君とデュオでギターを演奏した。
その時は「いちご白書」だったと記憶している。

他には一人で、当時好きだったフォークをギターでかき鳴らしていたかも知れない。
ベースは後輩に返してしまったので、高校に入学してバンドを組むまで触ることが無かった。


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2013年09月04日

思えば、自分のギターを手に入れたのは、中2のお正月であった。
どういうわけか、自分達の学年で新聞配達というのが流行っていた。

その新聞配達を5ヶ月した給料とお年玉を合わせて3万円。
中2のお正月の初売りに、市内の楽器屋からモーリスのアコースティックギターを買った。
それはあまり意識しなかったが、後で考えたら憧れのマーチンD28のコピーモデルであった。(笑)

そんなこんなで中3の文化祭、バンドで出ようという話しになったのだが、ギターを譲ってくれなかった友達は一向に練習する気配も無いままフェードアウトしてしまった。
しかし、俺は見たことも触ったことも無いベースをするというスイッチが入ってしまったので、もう後戻りはできない。(笑)

元々ギターをする友達は何人かいたので、アコースティックギター2、ベース1、ボーカルということで、上手くまとまってくれた。

さて、問題はベースをどうしようという話しである。

幸い、1つ下の後輩が持っているという。
文化祭では貸してくれるという。
これはありがたい。

ただ、当日までは手元に来ないので、何か代替のベースで練習しなければいけない。
活動してるのを見たことが無い軽音楽部にウッドベースがあった。
それじゃ、それを使って練習。

が、フレットは無い、弦高は高いなどで練習はとても大変であった。
フットが無いので、絆創膏をフレットの位置に張った。
そうでもしないと、とても音が合わせられない。
幸いギターをやったおかげでコードは分かるので、ベースラインはコードから適当に作ったり友達に耳コピを手伝ってもらったりして完成させた。

今考えると、とても人前では聞かせることができるようなベースではなかったなぁ。。(汗)


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2013年08月24日

夏まつりのステージに上がったのは4人。
リードボーカルと3人のアコースティックギター。
曲はかぐや姫の「あの人の手紙」だったかなぁ。

それよりも前の話し。
友達4人でバンドを組もうと言う話しになっていた。
目指す方向性も何も無かったのだけれど、ビートルズのようなバンドをイメージしていた。
当然俺はサイドギターで入るつもりだった。
ドラムを誰がということは記憶していないが、ベースはK君ということにしていた。
ところがK君はギターで参加したいと言い出した。
やりたいパートはどうしてもギターだと言う。

どこまで行っても平行線のような話し合いになってしまったので、俺はベースでもいいよと、その後何十年もの俺の人生を左右するような一言を発ししてしまった瞬間であった。
重要な一言であったが、これまた後先考えずに軽く口から出てしまった。(汗)

こうしてベースへと転向したのはいいが、エレキベースなんていうのは見たことも無い。
知っているのはウッドベース。
コントラバスともWベースとも言われ、クラシックやJAZZに使われる楽器しか知らなかった。

そんなビートルズをリスペクトするようなバンドのことはすっかり忘れていて、友達同士の話はすっかりと違う方向へと向かっていた。

秋の中学校の文化祭でバンドを組んでライブをやろうという話しになった。
かぐや姫のコピーバンドはすでにいたので、当時流行の風をコピーすることにした。
楽器の編成はボーカル、リードギター、サイドギター、ベース。

文化祭のライブの話しの前か後ろか、授業のほうで音楽の実地テストと言うのがあった。
好きな楽器や歌を披露するテストである。

ほとんどの人は個人か何人かでピアニカ(鍵盤ハーモニカ)で教科書に載っているものや流行の曲を演奏した。
また、何人かは歌で実技試験を受けた。

俺はと言えば、バンドを組む予定の友達と二人でフォークの定番を演奏した。
もちろん俺の歌は無しである。(笑)


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2013年08月14日

あの中2の時の文化祭が、大げさに言えばデビューステージだったんだけど、終わった後のことは全然覚えていない。
何しろ、ステージ上では緊張しっぱなし。
でも、ステーを降りたら、「やってやったぜぇ」的に高揚感でテンションMAX。(笑)

本当は先輩の演奏とかも効いたはずなんだけど、覚えていない。

なぜデビューする曲がチューリップの「銀のスプーン」に決まったのかというのも覚えていない。


そのころから音楽的思考が邦楽、しかもフォークソングに向かい始めた。
吉田拓郎や泉谷しげる、かぐや姫などのメッセージ性のあるものや叙情的なフォークに傾倒して行った。
そして、そのころから他のギターを弾いている友達とも色々と音楽を聴くようになった。

次のライブの予定があるわけではなかったが、バンドスコアなんかを買ってきてコードをかき鳴らしていたような気がする。
また、Kとは別の友達Hと、今で言うデュオを組んで二人で曲を作ったり練習したりもした。

気が付くと、同級生の中にも結構ギターを弾いてるやつがいるんだなぁと思った。

そして中学3年生。
この年は俺にとって大きな出来事が2つ起こる。

その1つは、音痴ということを友達に指摘されたこと。
最初はかなり凹んでしまったが、こればかりはどうしようもない。
ずいぶんと練習もして、多少は改善されたものの、やはり人前で歌えるような音程ではなかった。
がっくり。

そしてももう1つの大きな出来事のきっかけになったのは、一関夏まつり。
そのまつりの一部の中央町歩行者天国での信金のど自慢大会。
いや、音痴なので歌は歌わないんだけど。
ご近所付き合い的なのりで、バンドで参加申し込みをした。
仲の良かった友達が3人、ステージに上がってギターをかき鳴らした。
そしてこのステージの後に、俺が今でもベースを弾くことになる出来事が起きた。

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2013年08月04日


NSPの曲は簡単なコードを循環して使っていることが多かったので、初心者がギターを覚えるのにはちょうど良かった。
「いい」の後にNSPの曲を何曲か教えてもらい、なんとなく形ができてきたかなぁと言うころに文化祭である。

どこからそんな話しになったのか、ギターを始めて3ヶ月で文化祭のライブイベントに出ることになった。

ギターを教えてくれたKは、やはりバンドを組んでいた先輩達と交流があったのだ。
そういういきさつがあったから、文化祭のライブに出してもらえることになったらしい。

覚えたNSPの曲なら良かったけど、それでは先輩達のバンドの曲とかぶる。
そういうわけだったのだろうか、やる曲はチューリップの「銀のスプーン」だった。

今考えると、どうも格好が良くないなぁ。

2人とも先輩から借りたエレキギターを持ってステージに上がった。
ライブイベントは普通の教室よりも少し広い技術家庭の実習室。
ステージは教壇。

本当はハイコードでやらなくちゃいけないんだけど、 覚えたてのローコードのみ。
しかも、ドラムもベースも無い。
椅子に座ってままで、ストラップでギターを吊り下げているわけでもない。

夢中で弾いたたった1曲。

あっという間に終わってしまった。
ろくに曲にもなっていなかったかもしれない。

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2013年07月31日

小さいときから「調子っぱずれ」と言われて育った。音痴のことである。
そういうこともあってか、音楽は苦手だった。
小学校のときも、音楽の授業は好きではなかった。
3年生のときにピアノを習ったことがあるが、発表会が嫌で1年もしないうちにやめてしまった。(汗)

ちゃんと音楽として意識して聴くようになったのは、小学5年のときに入院した西多賀の病院。
そこはベッドスクールで、小学生より小さい子供から中学3年生まで、病室が教室になる病院だった。
もちろん一般病棟には大人の人たちも入院していたけど。

で、毎年今頃の季節になると中学生が中心となって文化祭が開催されていた。

普通の学校と同じように絵や工作の展示、合唱とか屋台なんかもあった。

その中にレコードコンサートという部屋があって、リクエストもできるようになっていた。
そこで聴いたサイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」が歌謡曲しか聴いたことのなかった俺をロックやフォークの世界へ目を(耳)を向けさせてくれた。
それからS&Gはもちろんビートルズ、フォークも聴くようになっていった。

中学に入ったころは、まだ聴くだけだったが、2年になったときに近所に住んでいた同級生がギターを教えてくれるというのである。
ちょうど従兄弟からなぜか白いギターをもらっていたので、ちょうど良かった。

初めてギターを鳴らした曲はNSPの「いい}という曲だった。
今思えば、本当に簡単なコードしか使われていなかったから、覚えるのにちょうど良かった。
そして、友達も俺にサイドギターを弾かせ、自分はリードギターを弾きたかったから、これまたちょうど良かったのである。

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2013年07月24日

音痴で音楽が苦手だった自分が、音楽に興味を持ち始め、中学でバンドを組むことになった。
あの日のことが有ったから、数十年経った今でも、バンドでベースを弾いている。
そんなあの日のことを思い出してみた。

子供の頃は音楽は苦手だった。音楽をしているより、外で友達と野球をしたり遊んでるほうが大好きだった。
でも、なぜか中学の頃からバンドを組んで音楽を始めるようになった。そしてそれは今でも続いている。
今になって思えば、あのきっかけが無かったら、今でもバンドでベースを弾いてるなんてことは無かったのかも知れない。



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2013年07月17日

2010/01/13(Wed)
11時半ぐらいに看護師さんからMRIへの招待。
予定が少し早まり、午前中にMRIができるという。
お昼はストップになっているので、終わったら好きなものを食べてくださいとのこと。

いざ、MRIへ。
奥まった古い場所にあるMRIへ。MR検査って言うんだね。
いや、調べたらMRI=magnetic resonance imagingらしい。
で、検査=inspectionなので、MRI検査でいいと思うんだけどね。(謎)

一生に何度も経験できないMR検査である。
簡単な問診票で金属の着用が無いかを確認。
メガネを外して、MRのベッドの上へ。
軽い説明を受け、耳栓、呼び鈴を持たせられる。
かなりうるさいと言うことらしいが、耳栓の中に流れるとぎれとぎれの音楽には笑える。
今回は頭部のMRIなので頭部を固定される。
ベッドが移動して、内部へは行って行く。
検査は大体30分ぐらいの予定だという

いよいよMRが始まる。
ピーピー、ガーガー、ガンガン、すごい音である。建設現場のような音である。
治療中の音とはとうてい思えない。
不思議なことに、こんなうるさい工事現場のようなところでも、ちゃんと眠くなってしまうから不思議である。

しばらくして、造影剤の注射がといことで一時停止。
造影剤は体重によって、その量を決めるとのことで、昨夜計ったばかりの体重を正直に申告。
別の人(注射係り?)が出てきて、腕に針を射した。見えないのだが、造影剤は別の場所からチューブで注入されるのかもしれない。
「チクっとしますからね」などと子供にさとすように言うのだが、そのチクはとても子供用のチクだとは思われない。
「痛かったら言ってくださいね」って、この痛さはチクの内に含まれている痛さなの?
それとも異常があって痛いの?
どちらの痛さなのかは、MRI初心者には判断できないや。(汗)

造影剤の注入が完了したので、再び検査の開始である。
ピーピー、ガーガー、ガンガン、勢いがよい。
また睡魔に襲われ、あっちとこっちを行ったり来たりする。
寝ぼけて撮影された、頭部のMRIはちゃんと写っているのだろうか。
ボケたりはしていないだろうか。

ややして、少し位置を変えて撮影だと言うことで、ベッドを動かす。
けれど、頭は動かさないようにと、一言注意。
耳栓が引っ張られて外れそうなんだけど。
もし、はずれちゃったら大変なことにはならないか?
大丈夫か?

「あと8分ですからね」って、その半端はいったい。
もちろん正確な時間だということはわかる。
でも一般人には10分の区切りでいいんじゃない?
どうせ頭も動かせない、せまっ苦しい感じがするところに収められて、時間も見れない一般人なのだから。
それか、どうせ正確をきすんなら、秒単位まで言ってくれた方が、さすがに嘘いつわりの無い大学病院だって言う気がする。

で、三度目のピーピー、ガーガー、ガンガンである。
しかし残り時間が知らされているから、今回はとても早いような気がする。
でもよく考えたら、30分のうちの8分って、割合としては結構長いんじゃないの?
そんなことを考えてたら、睡魔に飲み込まれることが無く終了を迎えた。

「メガネを受け取りお帰りください。」

The End.


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とりす
なかなか納得できる一枚が撮れなくて四苦八苦してるけど、撮りためた写真をブログでもアップ。


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