★あの人は今・・・

2020年04月05日

やっと名前を思い出した。
H・Kさん。
と言っても、あまり自信は無いのだけれど。
中学1年だったかの時にどこからか転校してきた女の子であるが、みんなから名前では呼ばれていなかった。
当時の一関市内にあった私立高校の名前で呼ばれていた。
転校元の中学校の制服でしばらく通学していたのだけれど、その制服が私立高校の制服にそっくりだったからである。
今は全然違う制服になってしまったが、やはり昔のままのほうがよかったかなぁ。
で、彼女と自分の接点はほとんど無い。
けれど、元気な女の子だったので自分も知らないわけではない。
クラスは一緒になったことが無かったけれど、話しは何度かしたことがある。
接点・・彼女、卓球部に入ったんだ。
自分も卓球部だったので、離れた場所で練習している女子の中にいたのを見た記憶がある。
それはあまりよい記憶ではなくて、あまり卓球が上手くないという悪い記憶だけれど。
その位しか情報がないので、彼女が卒業してどこの高校へ行ったのかも知らない。
また、話題に上ったのも聞いたことがない。
今はどこで暮らしているのか、どこへ行ったのかさえも知らないのである。
あの中学の時のように元気で暮らしていてくれれば良いのだけれど。


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simple_hama at 19:35コメント(0)

2020年03月26日

その昔、一関の街中に感じの良い喫茶店があった。
マスターは若くて、自分とあまり変らない年齢である。
そのマスターは、それ以前に別の場所にあるビルの2Fのスナックのアルバイトをしていたことがあった。
自分がまだ仙台で働いていて、友達が東京から地元に戻ってきたいて良く夜中まで飲んだ店である。
良くボブ・マーリィのライブビデオが流されていた。
その店を辞めた後に自分で店を開いた。
テーブルが2セットとカウンターが5席のこじんまりとした小さな店だった。
いつ行ってもお客がいないと言うことは無く、繁盛している店だった。
自分が今の会社に就職したての頃に、上司や先輩と良く喫茶店でコーヒーを飲んだのだったが、その上司もその店がお気に入りだった。
ある時、その上司から営業に来ないかという打診を受けたのだったが、笑ってやんわりと断った。
また、ある時は、その上司が仙台の工場立ち上げメンバーに加わったが、仙台へも誘われた。
もちろん、その時も笑って辞退した。
それから程なくして、一関の喫茶店事情が変化した。
ゆっくりコーヒーを飲める喫茶店が、軒並み店を閉じ始めたのである。
時代の流れだったのか、その彼の店も閉めざるを得なかった。
その後、何度か市内の結婚式場やホテルで会うことがあった。
やっぱりその道で働いているという。
最近は自分のほうがそういう場所とは縁がなくなってしまったので、その彼とも会うことがなくなってしまった。
最後にあった時から、もう何年経ったのだろう。
今でも元気で働いているのだろうか。

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simple_hama at 18:36コメント(0)

2020年03月12日

中学の2、3年に同じクラスだった。
小学校は学区が違ったので、中学に入るまでは顔さえも知らなかった。
それにしても格好いいやつだったなぁ。
多分、大モテだったんじゃないかなぁ。
ちょうど赤荻学区と山目学区の境目あたりに家があって、一度遊びに行った事があったなぁ。
彼はバスケット部だったので、当然足も速かった。1年のときから3年生まで、何故か運動会の100m徒競争では同じグループに入っていた。
1、2年の時は、あと一歩。いや、あと半歩の差でそのグループで1位になることができなかった。彼が練習を含めて、いつも先頭を走っていたからだ。
でも、3年の運動会本番で、何故か彼は自分の足に引っ掛かった。その時、自分の後ろを走っていたのだった。
そして、そのままゴール。
やっとのことでそれまでの雪辱を果たすことができた。
彼に100m徒競争で勝ったのは、それ1度切である。

中学卒業後は、工業高校に進学したはずだけど、その後どうしているのか分からない。
小さく集まった同窓会みたいな飲み会の時に、それとなく聞いてみたのだけれど、やっぱり消息は分かっていない。

どうしているのかなぁ。


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simple_hama at 19:42コメント(0)

2020年03月05日

苗字は覚えているけれど、残念ながら名前の方は忘れてしまった。
自分が仙台の西多賀病院に入院したときに6下病棟に勤めていた看護婦さんである。
その病棟には何人の看護婦さんがいたのだろう。覚えているだけでもI婦長、Yさん、Sさん、Sさん、名前は思い出さないけれど、もう二人と、そしてEさん。でも50人以上の子供たちがいたはずだから、夜勤も含めて5人ぐらいの看護婦さんではシフトは回せないだろうなぁ。
で、Eさん。
歩く姿が何となくアニメっぽかったな。
そして、どこか人生を捨てたような眼差しに時々なっているように、小学生の自分には映っていた。本当のところはどうなんだろう。
自分の病室担当では無かったので、あまり話しをした覚えが無いけれど、同じ病棟内なので冗談ぐらいは交わして親しくもしていただろう。
当時は多分20代前半だったはず、メンバーの中では一番の若手だったなぁ。
あまり長くない髪を後ろでしばって、頭の上にはナースキャップが乗っかっていた。どこか可愛い看護婦さんだったな。
残念だったけど、秋ごろだったか、別の病棟へ異動になってしまった。
それ以来、自分が12月に退院するまで会ったことが無かった。
今も元気に暮らしているだろうか。


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simple_hama at 14:03コメント(0)

2020年02月23日

自分と同じぐらいの年代で市内在住だった人は"M"を覚えている人も多いかも知れない。
自分が中学から高校生時代ぐらいまでの間にGパンを買いに行ったショップで、店舗は当時、駅から上ノ橋通りに500mぐらいの所にあった。
そこで働いていた、今で言うショップ店員と店長さんの3人である。
もちろん何人かの店員さんは他にもいたのだろうけど、彼ら3人が特に印象深かった。けれども名前は知らない。
店舗自体はそれほど広くなく、間口から奥のミシン作業台までの細長いショップだった。
元々は沿岸の気仙沼の人で本店はやはり気仙沼にあるという話しだった。
店長、格好良かったなぁ。ちょっと不良っぽく頭は軽くリーゼント、ちょうどキャロルの矢沢から毒を抜いた感じと言ったら良いのだろうか。
もちろんそれほど深い付き合いでは無かったが、たまにGパンを見るついでに遊びに行くと、楽しい話しをしてくれた。
女性店員A、後に店長と結婚したという話しだったが、果たしてどうだったか。
店長の硬派に比べると、長い髪に軽くパーマが掛かっていて、ゆるふわな感じの女性でとてもきれいだった。
もちろん自分は大ファンである。
女性店員B、ショートカットにスリムなGパンをはいていた。なぜか今でもハッキリと顔も覚えている。
ほとんど話しはしたことが無かったなぁ。
当時の自分たちのトレンドは、このショップで買い物をした時に買った品物を入れてくれる、長方形で抱えて歩くと丁度良い紙袋を持って歩くことであった。今の女性が有名ショップの手提げ袋を持って歩くように・・・。その後、その店舗の他にも市内に別の店を構えていたり、駅前の方に移転したりと変遷があり、残念ながら店は閉じてしまった。
今ではその3人も、結構な年齢になっているだろう。幸せに笑って暮らせてれば良いのだが。


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simple_hama at 23:03コメント(0)

2020年02月20日

中学2年だったか3年のときに教育実習生としてきた女性の先生。
大学生なので、もちろん先生のはずはないのだけれど、普通は先生って呼ぶよね。(笑)

自己紹介のときに名前を「明けて三日だから、○○○と名付けられました。」と言っていたけれど、へぇ、そうなんだぁと感心して聞いていたけれど、あれはつかみだったのかも知れないね。
とても可愛い女性だったので、男子生徒からは絶大な人気。
それに女子生徒からもすごく人気があった。

で、教育実習生は毎年来ていたので、ひょっとしたら3年間に出会った先生と記憶がごっちゃになってしまって、物語になっているかもしれない。
知っている人がいたら教えて欲しい。(汗)

教育実習のことは全然覚えていなくて、覚えているのは下宿していたところへ友達と遊びに行ったということと、大学の学園祭に行って会えずじまいだったということ。
下宿の部屋にハムスターを飼っていたような気がするんだけど、そうすると現実と矛盾するかなぁ。
大学は仙台、大体は出身校へ教育実習に行くはずだから、うちの学校へ来たのはおかしくない。
下宿というのが引っかかるが、ひょっとして一家は引っ越してしまっていて、教育実習の間だけ間借りしたとか、下宿ではなく実家だったとか。
その辺は良く覚えていない。

大学は仙台の「宮城学院」だったと記憶している。
学祭には友達4人ぐらいで出かけた。
でも、事前に待ち合わせをしておくなんていう考えはなくて、行ってみれば会えるかもぐらいに考えていたのが間違いだった。
中学の文化祭とは大違いで、人が多いから当然会える確立も低くなるという。

結局、学校の先生にはなったのかな。
教職志望だと勝手に思っていたのだけれど、違う場合もあるよね。
元気で暮らしていればいいなぁ。


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simple_hama at 16:31コメント(0)

2020年02月18日

かつてはうちの会社、とりわけ今の部署で良く取り引きがあった会社の営業担当者である。
昔から通信業界では歴史の古い会社だと思うが、今の部署の基幹業務メーカーとしてはそれほど古くもなく、シェアもそれほど多くはないかもしれない。
うちの部署としてはずいぶんとお世話になった人物であるが、定年を前に退社し自分で会社を起こした。
東北地方の代理店という形で、依然と変わらずにうちにも出入りをしてくれた。
そして、東日本大震災である。
彼の家は宮城県の野蒜という所にあった。
ニュースや新聞では列車を陸の上に停車させて乗客の命を津波から救ったという話しが報じられたあたりでる。
彼の家の場所は知らないのであるが、高い場所に建っていなければ津波に襲われてしまっただろうと想像ができた。
震災後にメーカーの人から聞いた話しでは、どうやら地震の後に逃げて無事だったという。
その話しを聞いてホッとした。
仕事上の関係ではあるが、少なからず繋がりがあり、何度か酒も一緒に飲んだ人であるから。
年齢的には厳しいのかも知れないが、生きていればこそ良いこともあるだろうと、元気に暮らしていることを願っている。


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simple_hama at 10:42コメント(0)

2020年02月04日

アルジェリアでプラント関係の会社で「日揮」の作業員がテロ組織に拘束されたというニュースが飛び込んできた。
久しぶりに日揮という会社の名前を聞いて、一番初めに就職した会社の社員Aさんを思い出した。
その会社はサイトにも時々出てくるが、仙台にあった非破壊検査の会社である。
彼はその会社から日揮に長期出向していて、自分たちが入社した時は北海道室蘭の石油コンビナートに検査員として働いていた。
そう言う訳で、自分がその会社に在籍した2年の間に、顔を合わせてのはほんの2、3回しかない。その幻の社員Aについては、仙台に残っていた他の先輩から「これこれこういうAという奴がいる」という話しは聞いていた。
初めて顔を合わせたのは、日揮がお盆休みに入り仙台に帰ってきた時だった。
改めて初めましてというような会を開いて飲みに行ったのだった。
どこで飲んだのかは覚えていないのだけれど、最終的には彼のアパートの部屋で飲んだという事は覚えている。
案外自分の住んでいた所に近いところにアパートを借りていたのだった。
結構きつそうな度のメガネをかけ、髪を七三に分けて、典型的なサラリーマンという風貌だった。そして一緒に数日間仕事をしたのだが、その風貌に違わずまじめな仕事ぶりであった。
あまり話しをする機会もないので、どこの出身とかプライベートな事は分からないが、アパートで飲んだ時に妹さんが居ると言うことを話していたのを覚えている。
今も日揮で働いているとは思えないが、彼に限っては人生の道を外すような事は無いだろう。
きっとどこかで元気に検査業務をしているかもしれない。
いや、別の業種へ転職しても、きっと上手くやっていることだろう。


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simple_hama at 18:23コメント(0)

2020年02月01日

高校の時にちょっと加わった吹奏楽部の1つ先輩の女性である。
担当はパーカッション、残念ながら名前は覚えていない。
自分はたった3カ月ぐらいしか在籍しなかったが、それでも面白い思い出は作ることができた。
当時パーカションは2人いたように思う。
吹奏楽でパーカッションを担当しているぐらいなので、当然リズム感には優れていた。
自分のようなにわか仕立てのホルン吹きとは大違いである。
話しをする機会は一度も無いままに、自分は退部してしまたのだが、その先輩が高校に在籍している間に2度同じステージに立ったことがある。
1度目は吹奏楽コンクールの県大会で、岩手県民会館の大ホール。
そしてもう1度は体育祭の後夜祭である。
一関に何年か前にライブハウスが存在したことがある。
そこへベースを弾きに来ていた人、どこかで見たことがあると思っていた。
ある時、その彼の同級生でギターを弾く友達が来たことがあった。
その友達の顔を見た瞬間に、高校のときの体育祭後夜祭を思い出して、ベーシストの方も合点がいったのである。
体育祭後夜祭の時の彼らのバンド、ドラムが上手かった。ギターはうちのバンドの方が上手かったけれど、聴いていると気持ちの良いドラミングであった。
正確なハイハットの刻みと切れのあるスネア。
なんて上手いんだろうと思っていたのである。
その彼女、今はどうなっているかも分からない。
どこかで可愛いおばあちゃんになっている頃だろうか。
彼女のことを聞いてみれば良かったなぁ。


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simple_hama at 11:05コメント(0)

2020年01月24日

面白い奴だったなぁ。
中学、高校の同級生である。
中学の時、東京の方から転向してきたんだったかな。
細身で背が高かった。
生徒会で役員を一緒にやったことがあったような気がするなぁ。中学の時。
今自分が住んでいる近くに、彼の親戚の家があり、そこに住んでいたんじゃなかったかな。
一度だけ部屋に遊びに行った記憶があるが、ウクレレを上手く弾いていた。
後から知ったけど、彼はドラムもやっていて、中学か高校の時の文化祭でライブに出たことがあったんじゃないかなぁ。
とにかく話しが面白かった。よくありがちな気取ったところは全然無くて、それでもどこか都会風の感じだったな。
面白いって、中学の文化祭の時に、飛び入りでステージに立ち、ひょっこりひょうたん島のテーマ曲に合わせて一人で踊っていた。
会場はドッカンドッカンの大受けである。
アレはあの時のアドリブだったのか、どこかでやったったことがあったのか・・。
高校を卒業して離ればなれになったけれど、一度だけ同窓会で会ったことがある。
中学だったか高校の方だったか。
その時は仙台に住んでると言っていたが、今は転勤して他の土地で暮らしているかも知れないな。
でも、彼のことだから回りの笑わせながら、元気に暮らしているんだろうなぁ。


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simple_hama at 16:18コメント(0)

2020年01月21日

自分が最初に就職した仙台の検査会社の同僚である。
修だったか修一だったか、名前の方は覚えていない。
自分が就職した年は工業系高校から3人が就職してきた。彼はその中の一人で、他の2人もそうだったが、ちょっと小じゃれたリーゼントだったが、目が可愛かった。(笑)
仙台が今のように大きな街になる前に、ちょうど仙台を挟んで宮城郡というのがあった。その中にある愛子(あやし)という所から通勤していた。
当時の自分からすれば、ずいぶんと遠いところから車で来るのだなぁと思っていたけれど、案外普通のことなのである。
彼ら3人は入社して1ヶ月で、青森県の六ヶ所村の現場へ数ヶ月の出張に入った。確か4月から9月ぐらいまでだったと思う。結構残業もあって体力的にも大変な現場だったが、お金を使うことが無いような所なので、お金が貯まって仕方ないと言っていた。事実、彼が出張から復帰してすぐにしたことは中古ではあるが、車を買ってアルミホイルを履かせ、オーディオをグレードアップした事だった。
自分が辞める前だったから、その後だったか、彼もその会社を辞めている。
理由はどういう事なのかは分からないけれど、在職中に次は車屋に就職するんだと言っていた。
オートバックスかイエローハットに同級生がいるのだという。
彼も車が好きだったから、まぁそれも一つの生き方かなぁとは思っていた。
ただし、車で攻めている時に、コーナーを抜けた後でシフトダウンをすると言い張っていたけど、それは完全な誤りだぞ。基本的にはコーナー手前でシフトダウンをしてトラクションを掛けながらコーナリングすると言うのが、正しいのだ。(笑)
その後は一度も会ったことが無い。今は何をしているのかなぁ。


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simple_hama at 17:33コメント(0)

2020年01月09日

高校3年の時に、自分のバンドに誘ってくれたギタリストである。
彼との付き合いは高校一年の時に音楽サークル2:10に入ったときからである。その当時は自分も中学の時からの同級生を中心にバンドを組んでいたし、彼も自身のバンドを組んでいた。
その当時の彼のバンドは、彼がギターで、他にベースとドラムスがいた。3人編成だったかどうかは覚えていない。
彼らは一関高専に在籍していてバンドを組んでいたのだが、後に自分が参加したバンドのクライシスを初めから組んでいたかどうかも定かではない。
ただ、彼らは格好よかった。バンドとしてもまとまっていて女子高生に随分と人気があって、自分たちのバンドとは大違いであったことは覚えている。(汗)
3年になり彼から声をかけられ、自分がベースとして入ったときは、ギターが彼、ドラムス、キーボード、ボーカルという編成だったと思う。
持ち曲は甲斐バンドや激しいハードロックのカルメン・マキ&OZなのであった。
そして、彼らとは何度かライブに出たのだけど、一番覚えているのはNHKローカルの番組に出演したことかな。
一関体育文化センターというところで公開収録があって、高校生のバンドは自分達。他に社会人のバンドが出演していた。
OZの曲を中心に演奏したのだけれど、ボーカルのキーが高くて大変そうだった。
当時のドラムはどこで何をしているのかは知っているのだけれど、T君はどうしたのだろう。
20才ぐらいの時に一度、仙台の仙台名掛丁アーケード街でばったり会ったことがある。自分も仙台に住んでいた頃なので、また会えるだろうと思っていた。けれどそれ以降は姿を見ることも無かった。
今も仙台で仕事をしているのだろうか。
また、高校の時のように一緒に酒を飲みたいものだ。(笑)


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simple_hama at 13:33コメント(0)

2019年12月07日

苗字のほうは佐藤だったか鈴木だったか、はっきりとは覚えていないな。
初めて就職をした仙台の検査会社の事務員さんだった。
4月から働き始めてたのだけど、前年10月ごろに会社訪問をした時にはいなかった。
半年間のうちに事務員さんが入れ替わっていてびっくりしたが、少し若くなっていたので嬉しかった。(笑)
後で聞いた話では、会社訪問の時にいた事務員さんは、社員の奥さんで出産のために退社したとのことだった。
新しい方の事務員さんは、物静かであまり余計なことをしゃべらないタイプの女性だった。
自分が在籍した2年間で、交わした言葉は100も無いかも知れない。
こちらから話しかければ、ちゃんと話し相手にもなってくれるしほほ笑んでもくれた。
社員が10人程度の小さな会社だったので、時々事務所で2人きりになることがあるけれど、それでもワイワイと話しをしたという記憶はない。
いつも静かに仕事をしている印象しかない。
彼女の受け持ちは経理や雑務だったので、自分たちの現場仕事とは全く異なっていた。
時々大きな経理事務所へ出向いて仕事をしてくることもあった。
実家は八木山の麓にあるって、お祖母さんは古川に住んでいると聴いたことがある。
古川は駅の近くに家があったので、もし古川にいれば駅から大きな声で呼ぶと聞こえるかもと珍しく冗談を言ったことを覚えている。(笑)
自分より先に退職したのかは覚えていない。でも、彼女の送別会をしたという記憶が無いので、辞めたのは自分よりも後なのかも知れない。
今はどうしているんだろうなぁ。


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simple_hama at 00:45コメント(0)

2019年10月19日

残念ながら苗字の方は思い出せない。
彼とは幼稚園と小学校1、2年が同じクラスだったのかな。
なぜ彼を思い出したのかも分からないのだが、ポスターである。
小学校の時に彼の家に遊びに行ったことがある。そんなことはずっと忘れていた。
ちょっと前に、その彼の家が実は自分の今住んでいる所からそんなに遠くはないことを思い出した。
その彼の部屋は2階にあった。今では珍しくもないが、その辺りで2階建ての家と言えば、限られている。なので、ここだったなぁと今でも特定はできる。
もちろん外観などは思えているはずもないのだが。
で、何がポスターなのだと言うことになるが、彼の部屋に何かのポスターが貼ってあった。
そのポスターの貼り方が格好良いと思ったのか、まねをして自分も家の2階建てベッドの上の所の壁にポスターを貼った。
ただそれだけの話しなのだが、彼の笑った顔は覚えているから不思議だ。
何をして遊んだのかも分からないのに。

(追記)
苗字、思い出した。千葉だったはず。そう、千葉。


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simple_hama at 15:45コメント(0)

2019年08月30日

そう言えば、あの人は無事だっただろうか?
仙台の会社で一緒だった先輩である。
当時自宅があったのは、宮城県名取市である。実家は確か造園業だったか工務店だったか、そういう工事関係の仕事をしていると聞いたことがあった。
もうあれからずいぶんと時間は経ってしまったから、引っ越しをしてると言うことは十分に考えられるし、会社が解散してからは別の所に移って仕事をしているのかも知れない。
そして、この3月の震災による大津波から、何とか逃げ延びていて欲しいと思う。
名取市といえば、津波で壊滅的な被害を被りながらも、米軍の援助によって真っ先に復旧することができた「仙台空港」がある所である。
残念ながら今では、当時の関係者に連絡を取れる手段が無い。ただ無事を祈るだけである。
仕事をしている時の彼は、どちらかというと物静かではあったけど、その分いつも冷静に分析をするというタイプであった。
その会社は何人かのチームで現場に出向くことが多かったのだけど、いつもその彼は責任者、いわばプロジェクトリーダー的な存在であった。
自分が初めて入った本格的な現場の塩釜ガスや青森ガスの球形タンクの検査では、彼はもちろんリーダーなのであるが、その仕事は検査部門の工程管理から検査項目の結果管理、依頼主への報告書(もちろん最終的には公共機関へ提出される)、そして現場の検査と渡っていた。
先輩達は誰がどの専門分野というのは無かったのだろうけど、彼はことさら難しい超音波探傷を担当することが多かった。きっと彼の冷静に判断するという正確に適していたのかも知れない。
どうか、生き延びていて欲しい。


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simple_hama at 20:59コメント(0)

2019年08月18日

一つ下の後輩である。
小学校の時に、良く図書館に来ていた。自分は6年生、彼女は5年生。
中学校も同じである。
自分が2年の時に彼女は1年生。自分のクラスは2階にあって、彼女が登校してくる姿を目にした。けれども、ひょっとして会話を交わしたことが無いかも知れない。
なぜかその後の記憶がない。
高校はどこへ行ったのか、クラブは何をやっていたのか、そんな記憶が全然無い。
自分たちが中学生だった時代からはかなりの時間が経っているのだが、彼女のことは忘れたことがない。
あまり彼女の事は知らないのに、自分の記憶から無くならない。
おかしな話しではある。
彼女の当時住んでいた自宅は知っている。
時々家の前を通ることがある。
表札は無く、新しい家になっている。
今はそこは両親が住んでいるのか、引っ越してしまっているのかは分からない。
もちろんそこに未だに彼女が住んでいるとはとうてい思えない。
でも、きっとどこかで元気にやっていることだろうと思う。


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simple_hama at 11:58コメント(0)

2019年08月08日

中学1年の時に同じクラスだった女の子。
好きだったなぁ。
もっと勇気があったら、告白できたんだろうけど・・・・無理だった。
でも、クラスの中でしゃべっている時なんか、楽しかったよね?

気になっていたのは、彼女の手の挙げ方。
普通は手のひらを相手に見えるように手を挙げると思うけど、彼女の場合はなぜか自転車の手信号の右折の時のような挙げ方。
相手から見ると、チョップになっていたよ。
それが、妙に気になっていたんだよ。(笑)

今は中学の同級生の奥さんになっている。もちろん旦那の方とも友達だ。
彼の方はメーカー系の人間なので、ひょっとしたら転勤族になっているのかも知れないな。

久しぶりに会ったのは同窓会だった。
中学の同窓会なので、当然夫婦同伴。
1次会の方はクラス毎に部屋が違っていたので話しはしなかったけど、2次会では居酒屋に行ったよね。
彼女の方も男女それぞれから人気があったので、あっちこっちに動き回ってたよね。(笑)
自分は旦那と飲んでいて、自分の使っているプリンタメーカーだって事が分かってビックリだったけど。

帰りの方向が同じだったから、何人かで相乗りして旦那の家まで送っていった。
旦那かなり酔っぱらってまともに歩けなかったけど、二人で家に入っていったのは当たり前だよね。
でも、何だか違和感があった。(笑)

その後、どこかへ転勤していったのかな?
幸せ・・・だよね?


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simple_hama at 17:29コメント(0)

2019年07月27日

中学と高校の同級生である。
小学校は学区が違っていたので、同じ学校では無かった。
中学の1年の時に同じクラスになって、以降3年まで一緒のクラスだったかも知れない。
彼女、頭が良かった。
中1の最初のテスト、中間テストというので学年で15番だと聞いた。
実際にはもっと頭の良い人も、もちろんいたのだけれど、ジワジワと頭が良いのである。

彼女、中学のクラブが同じ卓球部だった。
当時、中学の卓球部は男女一緒に活動していなかったから、ほとんどどんな感じなのかは分からないのだが。
そして同じ高校へ進学したわけだが、高校の時のことが全然知らないのだ。
どういう高校生活を送っていたのか分からない。けれどまじめな性格なので地道に勉強していたのではないかなぁ。
あまり自分を主張するタイプの女性では無かったような気がするのだが、それでも何かしらの存在感があった。

中学の美術の時間に肖像がの課題があった。
その時、彼女は女性側代表でモデルに教師から指名された。
自分は彼女を描いたのだが、それは彼女に申し訳ないぐらいに下手な絵になってしまった。(汗)

何年か前の中学の同窓会の時に会ったきりなので、もうずいぶんと会っていないが、その時は市職員だと言うことだった。
確か栄養士になったようなことを聞いた覚えがあるので、きっと給食センターのおばちゃんになっていたのだろう。
その後はどうなっているのか話しを聞かないが、きっと専業主婦になったのかも知れない。
時々彼女の実家の前を通ることがあるが、どうしているのかなぁと当時のことを思い出している。


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simple_hama at 13:06コメント(0)

2019年06月20日

専門の時の同級生。
ストレートで入ってきたので、年は実際には一つしたと言う事になるのかな。
確か住んでいたのは日暮里と聞いた記憶がするが、遊びに行った事はない。

高校の時はGSでバイトをしていたと話していたので、そんなからの作業服姿を想像したたことがあった。
けれど普段の感じからはとても想像はできない。
優しそうで(実際に優しかったけど)気弱そうで、何となくなよっとした印象を受けた。
けれど人は見かけによらないの言葉通りで、GSでバイトしていたことや、剣道をしていて段持ちだったのでびっくりした。模擬刀というのも彼から初めて見せてもらった。

彼は仲間内では数少ない自分の車を持っていたので、走り好きの自分たちから良く誘われていた。さぞかし迷惑だったかも知れないなぁ。(笑)
けれども人の良いSは嫌な顔をせずに、いつも自分たちに付き合ってくれた。
車は三菱ミラージュの赤でハッチバック。当時FFが出始めた頃で、かなりキックバックが強い車だった。それでもタックインなどという技のまねごとをして首都高や箱根を走ったものだった。(笑)

麻雀は一度だけした記憶があるが、並べて積むのが精一杯という感じ。
お世辞にも上手いとか強いというレベルではなかった。
みようみまねの麻雀なので、当然勝てるはずも無かった。(笑)
さすがにこちらも誘うのには気がひけたのかもしれない。打ったのはそれ一度だけだろう。

就職活動も終盤に近づいた頃、某時計メーカーを受けるということを聞いた。
それで、面接に時計のデザインを求められているということだった。
それじゃ、という感じでざっと簡単なデッサンをして、妙な理屈をつけてこれを提出したらと言った。
その後、そのメーカーに入ったかどうかは定かではないが、もし入れなかったとしたら・・・ひょっとして自分のデザインした時計のせいだったかも知れない。(汗)

彼との最後は、他の同級生と同じように、卒業式の後の謝恩会の2次会である。
今はどこでどうしているんだろうなぁ。


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simple_hama at 17:43コメント(0)

2019年06月06日

彼とは小学校の3年の時に一緒になっただけの間柄だ。
2年生の時も4年生の時も彼の記憶はないから、やはり転校生としてやってきて、そしてまた転向して行ったのかも知れない。
そして、あまり他の友達から彼の話しは聞いたことがないので、やはり他の友達も彼の思い出というのはそれほど持っていないのだろう。
けれど、小3の自分としてはかなりの時間を彼と一緒に遊んだように思う。
自転車しか移動手段のない小学生にとっては、彼の家は日常的な距離とは言えず、ちょっと離れていたように思う。
今は彼の住んでいた近くを車で通ることがあるが、それほどの距離とは思えない。
自転車だったしてもそれほど遠いわけではないのだが、やはり行動範囲の広くない小学生の距離感覚なのだろう。
今でもある道から少し奥まったところに彼の家はあった。
正確には彼が住んでいた借家があったというほうが良い。
棟続きの長屋で隣同士がくっついていたような気がするが、これはどうだろう・・・当時、一関にそのような借家があったかどうか。
具体的に何をして遊んだという記憶は、これまた無い。
何か馬鹿なことをしゃべっていたという記憶しか持っていない。
けれど、かなりの年月を経ても、彼の記憶は消えないのだから、彼とはそれ相応に遊んでいたのだろう。
当時友達から聞いた話しだったか本人から聞いた話しだったかは定かではないのだが、彼のお父さんが気象関係の仕事をしていたという話しで、彼もお父さんと一緒に転校して回っていたという。


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simple_hama at 15:17コメント(0)

2019年04月29日

小学校の時の同級生だったかなぁ。はっきりとは覚えていない。
彼女の近所で遊んだことを覚えているから、やっぱり小学生ぐらいのときは遊んでいたんだろうなぁ。
うっすらと覚えている彼女の家は、自分の実家の下の通りを何百メートルか行ったところにある。
そこで、何か名前の思い出せない(エルビー)健康飲料を飲んだことを覚えている。

そうそう、家の前の道路がまだ舗装されていなかった時代だから、やはり小学校の低学年の時のことだと思う。
そこは、学区外なのでめったには遊びに行くようなところではなかったけど、そこの近くに近所の友達がおばあさんの家があって、放課後に預けられていたから、時々遊びに行っていた。
だから、まったく知らないところではなかったし、遊んで回るエリアのギリギリ中だったかも知れない。

大きくなってからの事は覚えていないけれど、中学の時の制服姿は覚えている。
だから、中学までは地元にいたのだろう。もしかしたら中1の時は同じクラスだったかも知れない。
その後の記憶は無いので、ひょっとして途中で転校してしまったのかもしれない。

その当時からかなりの年月が経ってしまったが、もちろん自分と同じ歳なのである。元気で暮らしているのだろうか。


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simple_hama at 13:33コメント(0)

2019年02月12日

そういえば彼は案外、私の家とは近かったと記憶している。
彼の実家は登米町、現在の登米市だった。
その当時は、登米というところは宮城県内だということは分かっていたが、実際にはどこにあるかも分からずにいた。
後に社会人になり、仙台の会社で仕事をしていたときに、たまたま登米の鉄工所との付き合いがあり、何度か一緒に仕事をさせていただいた。そして、うちの一回は、その会社の地元の登米でも仕事をしたことがあった。
その時は、この辺に住んでいるのだろうなぁと、彼の元気な姿を想像していた。
小学5年の時に私は仙台の国立療養所西多賀病院というところに入院していた。病室がそのまま朝から夕方までは教室になり授業が行われるというベッドスクールだ。
私が入院してきた後に仲間に加わった彼は、背中のカリエスだったと記憶している。
上半身を固定させるために、入院当初は上半身にギブスを巻いていた。
小学5年生の彼には、かなり辛かったのではないかと思うが、そんな事はおくびにも出さずに、毎日明るく過していた。
自分は1ヶ月、足をギブスで固定したが、最初の一週間は耐えられない苦痛だった。
何が苦しいって、自由に動かせないのだから、そうとうストレスがたまるというものだ。
けれど、彼はギブスをしていても、何か文句を言ったということを聞いた覚えが無い。
確か秋には退院したと思うのだが、どのぐらいの入院期間だったのか覚えていない。
退院するときに彼のお父さんから、病室の子供たち全員に一冊のノートがプレゼントされた。
私のノートには「いつまでも元気で」と力強く書かれていたはずだ。
そして彼の家までの簡単な地図が書かれていた。
しばらくは大切に何も書かないで取ってあったが、中学の時に勇気を出して友達の住所録にした。
そして、その住所録はPCで住所管理をするまで、大事に使っていた。
その後の彼のことは分からない。もちろん今ではいい親父になっているはずであるが、地元に残ったのか、故郷を後にして別のところで居を構えたのは分からないままである。


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2018年12月26日

子供の頃、憧れのお兄さんだった。彼には私よりもも2つ年上の弟がいた。
けれど弟さんよりも彼のほうが小さな子供達の面倒見が良かった。
その頃は、今の子供たちと違って遊ぶときは縦社会なのだ。
もちろん同級生のつながりもあったけれど、必ず年上の人たちに混じって遊んでいたものだ。
私は彼から7つや8つぐらい下で、味噌っかす的な存在なので、いつも彼らの後を必死になって追いかけていた。
私はひょっとしたら、その縦社会の末期の存在ではないのかなぁと思う。
幼稚園の頃には、手先が器用だったのだろう、ソリや竹スキーを作ってくれた。
当時は今よりも雪が多かったので、家の裏坂や少し離れた山の斜面などで、良く滑ったものだ。
もっとも彼のお父さんは竹細工で、何かを作っていたのだから、血筋かもしれない。
また、機械物にも詳しかった。もちろん車やバイクなどという大人の遊び道具ではなく、自転車という子供にとっての唯一の移動手段。
彼の庭には彼専用の自転車小屋という名のガレージがあり、その壁には自転車いじりに必要なレンチやスパナなどの工具類が掛けてあった。
そうしてコツコツと自分の自転車を修理したり、改造したりして乗っていたのだと思う。
私が初めてサイクリングらしいことをしたのは、小学校の1年か2年だったと思う。
自宅から7〜8Km離れた平泉町の中尊寺までの往復だったが、そのサイクリングを企画して連れて行ってくれたのが彼である。
そして、運動神経も抜群だった。私が小学校に入った頃には、彼は中学生になっているのだが、多分体操部に入っていたのだと思う。
時々以前と変わらずに遊んでくれたのだが、時々前転から側転、そしてバク転・バク中という連続技を見せてくれた。
もうこれだけでも、彼は私たち小さな子供にとっては、憧れ以上のスーパースター的な存在である。
その後、結婚して元の自宅で暮らしていた。けれど、その家が狭いこともあってか、どこかに家を建てたのであろう。
ここ10年ぐらいの間に引っ越してしまっていて、気がつくと元の自宅は更地になっていた。


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2018年11月14日

小学校5年の、多分、俺が入院した年に転校してきた、男子である。
俺は小学校5年の時は、4月の始業式前から12月の冬休みまで、仙台の西多賀の病院に入院していた。
そこの事は、なんだかサイトでも書いたが、病室に学校の先生が来て、普通の小学校のように勉強ができるところである。
退院したのはベッドスクールの終業式の日、前にいた山目小学校の5年生として戻ったのは、お正月明けである。
当然5年生の転校生として山小には戻ってきたが、ほとんどの児童は昔からの友達である。
しかしながら、その中には何人か、俺が西多賀に入院している間に転校してきた児童もいた。
M・T君も多分そうだろう。
山目小学校の春の始業式には出ていないので、その時に転校生がいたかどうかは分からない。
その山小の5年生は掃除当番として、1年生の教室も掃除する班があった。
彼と俺は班が一緒なので、当然一緒に1年生の教室を掃除することになる。
そして、その掃除先のクラスには彼の弟が在席していた。
年頃の男子にとっては弟や妹はなぜかくすぐったい存在なのだ。
そういう理由からだろうけど、一緒に掃除に行った日に、突然弟を捕まえて柔道の選手のように一本背負いを決めてしまった。
小さな弟は何の抵抗もなく、床に落ちた。
でも、きっと手加減をしていたであろう、弟が着地したのは足からだったので、これといって泣くことも、怪我をすることも無かった。
きっと普段からふざけあって、兄弟で柔道ごっこをしているのであろう。
彼に付いて覚えているのは、たったその1日だけなのである。
他にも一緒に遊んだりしたはずなのだが、他の事は覚えていない。
そんな5年生も、やがてそのまま6年生になった。
けれど、彼は同じ教室にはいなかった。転校して行ったのだった。
どこへ転校したのかさえも、俺には分からなかった。
そういえば、山小に戻ってきて数ヶ月して、あの「浅間山荘事件」が起ったのである。


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2018年10月07日

勢いの良い、ちょっと色の黒い女の子だったなぁ。
しかも鼻が高く、おかっぱな髪をピンで留めていたな。
どんどんいろいろなことを思い出して、彼女をずんずんと美化してしまいそうだ。
小学校の5年生の時に、仙台の病院に入院していたが、その時に俺よりも随分後に入って来た同級生である。
彼女は脊柱側湾症でかなり背中が横方向に曲がっていた。けれど、外には異常も無いので、おれと同じように随分と元気だった。
これと言ったエピソードは無いのだけれど、その彼女の元気さがすごく印象的であった。
11歳の女子ということで、気持ち的には彼女の中には、男子が圧倒的に多かった環境に入って来るのには、かなり微妙ではなかったかと想像する。
他にいたもう一人の同級生の女の子は、俺が入り前からいたのにもかかわらず、他の男子にはなじめないでいた。
しかし、彼女の持ち前の明るさと威勢のよさが、他の男子たちになじめることを容易にしていたのだろう。

その後、病気を完治することができたのだろうか。
そんなことももろともせずに、明るく元気に生き、きっと元気な子供をしっかりと育てているに違いないと、期待を込める。


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simple_hama at 22:18コメント(0)

2018年03月04日

小学校の頃に野球を教えてくれて、一緒にやってくれた人。
小学校の2年生ぐらいまではテニスボールのような軟らかいボールで、近所の友達何人かと野球をするのが晴れた日の日課だった。
3年生になった頃になぜか民区(地区)の野球チームに入ることになった。ボールもそれまでのテニスボールのような軟らかいものでは無く、軟式野球用のいわゆる軟球である。
3、4年生なると民区のチームに入って野球をする習慣になっていた。一応は公式のチームに入れるのであった。
対外試合は、やはり他の民区とやるというのが普通だった。今のようにクラブチームやリトルリーグなどはあるはずも無い。また、5、6年生になると小学校のクラブで、他校との対外試合をやるようになっている。
やはり同級生の野球好きが何人か同じ民区にいて、彼らとも何度も野球をやっていた。同じ民区なのでもちろん同じチームに所属していた。
当然、一つ先輩も同じチームに所属している。その中に彼がいた。同じ民区なので住んでいる家もそんなに離れていない。
それでも、小さいころからやっていた軟らかいボールの野球のときは一緒にやったことは無かった。
突然俺の野球という視界の中に現れた彼は、ひょっとしたらどこからか転校してきたのかも知れない。
彼はキャッチャーで小学生の低学年から見たら、妙に大人っぽくてとても格好良かった。特に守備に着いたときに、キャッチャーマスクを手に持って全員に掛け声をかける姿が格好良かった。
そいう姿に憧れた俺は、やはり草野球や後の中学、高校ののクラスマッチの野球では、マスクを被りキャッチャーをやっている。
対外試合は記憶にあるのは1度だけである。もちろん彼はキャッチャー、俺は何とかライトのポジションに入っていた。その試合で俺が打ったかどうかは覚えていない。守備から攻撃に移るときに走ってベンチに戻ってきたとき、すごく緊張していたのを思い出す。
残念ながら、彼も打てたのかどうか、そして試合に勝ったのかどうか、それより、どこのチームとやったのかさえ思い出せない。


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simple_hama at 14:17コメント(0)

2018年01月19日

彼女とは専門の時の同級生。しかもたった1学期だけの同級生。
前にここに書いた同級生の彼女だった。
いつごろから話すようになったのかは覚えていないんだが、仲の良いグループが出来上がったときにはすでに友達の彼女になっていた。なのでグループの中にいたから、いつも授業時間やお昼時間は席が後ろだったり前だったりした。
第一印象は高卒にしては派手な感じだなぁと思っていたが、当時流行っていたサーファー風の服と化粧のせいだったかも知れない。街を歩けばそんな格好の女性はいくらでもいたが、学校の中ではちょっと目立った存在だった。
彼女は浦和だったか大宮だったかの人で、商業系の高校を卒業したと聞いた。
おかげで1年生の1学期に履修しなければいけない商業簿記は救われた。彼女のノート丸写しだ。(汗)
普通高校卒の俺とすれば簿記なんて見たことも触ったことも無いのだ。
そんな彼女とは飲みに行ったことも無かったし、友達が麻雀屋につれてきたことも無かった。そういうわけで、学校の中だけの彼女しか知らないのだ。
どういうことがあって、夏休み以降に学校に出てこなくなったのかは分からないが、ある日の混雑した京浜東北線の中で偶然に彼女と会ったことがあった。
その時話したことで分かったのは、友達との中は終わっていて、六本木辺りの会社にOLとして働いているということだった。
そういえば学校で目立っていた彼女の、その時の服装はOLさんのスーツ姿だった。
今も元気なんだろうか。


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simple_hama at 14:28コメント(0)

2017年12月25日

俺が小学校の時に入院していた西多賀療養所の隣の病室の一つ上の男の子だ。
彼はペルテスという病気で、普通に生活していると股関節の骨が崩れてしまうので、骨が成長し固まるまで活動を制限しなければならないという状況だった。そして、その病棟に入院していた多くの子供たちがその病気だった。
俺が入院していた病棟は下は小学生未満から上は6年生のまでの児童がいた。隣の病室にいたその男の子は6年生で俺の1つ上の学年、その病棟では一番年上ということになる。
最初の印象では体が大きく、どっかりとベッドに座っていたので、どこか牢名主のような雰囲気があった。もちろんそんな事は無かったが、こっちも入院したばかりで勝手が分からないのと年上の人ということから、そういう印象を持ったのだろう。
ひと月もしないうちに、その病室の人たちとも仲良くなれて、授業が終わると良く遊びに行ったものだ。
彼は模型を作るのが得意で、塗装もやり本格的なのだ。プラ模型も上手いと思ったが、鉄道模型も彼の範疇だった。割と大きくレールを床に這わせ、夜は部屋の電気を消して、模型に灯りを着けながら走らせるということも良くやっていた。
中学ぐらいになると物を作ることが苦手になってしまったが、その時は彼の模型好きの影響で俺もプラ模型を作ったりしたものだった。
あの病院に何年入院していたのだろう。その後、いつ退院したのかも分からないし、その後の彼の人生も知らない。
けれど、手先の器用さを生かして、どこかで物作りの仕事をしているのではないかと思っている。
そして、当時を思い出しながら書いていると、何ヶ月か一緒に過ごした子供達の笑顔がよみがえってくる。
みんな元気にしてるのだろうか。


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simple_hama at 10:43コメント(0)

2017年08月19日

彼女、考えてみれば幼稚園から中学までの同級生だったんだなぁ。
幼稚園の時に、その当時いつも祖母が買い物に行くスーパーマーケットの近くに、彼女は幼稚園が終わると預けられていたので、何度も遊びに行った記憶がある。
その家の道路を挟んだ向かいには倉庫があって、いつもそこが遊び場だった。
また、記憶には無いのだから会ったことは無いのだろうが、彼女のお兄さん(おそらく叔父さん)がいると言っていた。そいういうわけだか知らないのだけど、なぜか「黒い炎」などというロックみたいなソウルみたいな、おおよそ幼稚園児が聴くとは思えないような曲を、彼女とその預けられた家とセットで覚えているのである。
彼女の小学時代の記憶は全然ないから、ひょっとして転校したのかもしれない。その辺は定かではないが、中学の2年の時に、また同じクラスになった。
彼女はリーダー的な存在なので、クラスの女の子たちを引っ張ってくれた。合唱大会とかクラスマッチや運動会とうクラス対抗のイベントになると、彼女を中心に女の子たちが動いてくれるので、クラスが一緒になって大いに盛り上がることができた。3年生の運動会の応援でのキャンディーズの「年下の男の子」の振りは、今では恥ずかしいながらにちゃんと記憶にある。
高校は別々になってしまった。彼女はその後短大へと進み、市内の幼稚園か保育園の保母さんになった。
高校を卒業し、全然顔も会わせなくなってしまったが、数十年ぶりに行きつけの本屋で、これまた久しぶりに会った友達と話しをしているところで会うことができた。
しかし、お互いにかなりの年数が経っているわけだが、相変わらずの調子だったので元気だったんだろう。
その再開からまた10年以上も経ってしまったが、今ではどうしているのだろう。また、ひょんなところで顔を会わせることができるかもしれない。


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simple_hama at 10:50コメント(0)

2017年08月02日

もうしばらく会っていないけど、ずっと気になっている人がいる。
俺よりも7つぐらい上の先輩で、よく行っていた喫茶店の常連さんである。
当時住んでいた所も、大体は知っているが正確な家は知らない。
本人に確かめたわけではないが、高校の先輩でもあるらしい。
お互いにその喫茶店の常連であったから、よく酒は飲んでいたし、それ以外のところでも一緒に遊んだりもした。
若い常連達で、馬鹿騒ぎをしたり海に行ったり、お祭りに繰り出したり。あるいは車で仙台までドライブしたり、スケボーやスキーをしに行ったり。
彼は必ずその輪の中にニコニコして加わっているのだ。そして、それが全然違和感がなく、そこにいるのが当たり前の存在だった。
彼は俺のように昼間からうだうだとその店にいるわけでもなく、仕事が終わって一度家に帰ってから出直してきていた。だから、登場はいつも7時ごろだった。
いつも酒を飲んでいるということではなく、ほとんどはコーヒーだった。もちろん俺もそうだったし、酒ばかり飲んでいると破産してしまう。
ずっと付き合いがあった当時は、まだ結婚してはいず、そんなに焦っている風でもなかった。何かのんびりとした感じがしていた。
今はその店そのものが営業を止めてしまっているので、彼の行き場所はどこにあるのか。
ひょっとしたら仕事を求めて、一関にいないのかも知れない。狭い一関でもすれ違ったとか、見かけたということも無いのだから、ひょっとしたら遠いところに住んでいるのかも知れない。
とっくに結婚していて、家の中にいて相変わらずニコニコしているのかも知れない。


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simple_hama at 15:11コメント(0)

2017年06月21日

高校生の時、中学からの同級生達で組んでいたバンドのサイドギター&ボーカル担当。
彼は元々は同じ小学校にいたらしい。クラスは一緒になったことが無かったので知らなかったのだが、後でそういう話を聞いた。そして転校して行ったのだが、中学校の時に沿岸の方からまた戻ってきた。
沿岸ということもあって、きっと数々の修羅場をくぐってきたのかなぁ思わせるような雰囲気を漂わせていた。決して喧嘩をすることは無かったが。
どういういきさつで彼と一緒にバンドをやることになったのか分からないが、彼がギターを弾けるということをリードギター担当の友達が知っていた。高校1年の時は、フォークとかニューミュージックをアコースティックギター2人とエレキベースの3人という形でやっていた。けれどギターの2人はロックをやりたいと思っていたのだろう。2年生になった時にドラムスを入れて、4人編成でディープパープルやツェッペリンなんかのハードロックをやりだした。3年生になって俺が別のバンドに入るまでそのバンドは続いた。
お兄さんの影響もあったためか、どうも彼は俺たちよりも一つ大人びていた。体も俺達よりも一回り大きかった。ライブの時は時々真っ黒なサングラスをかけていたのだが、それが高校生とは思わせないほどに似合っていたから、今思うとおかしい。(笑)
そして、お兄さんから受け継いだグレコの黒のレスポールが、その風貌にぴったりだったなぁと今でも思うことがある。
彼は高専生だったので普段はとても自由にやっていたが、勉強も結構まじめにやっていたのかもしれない。
一度教科書を見せてもらったことがあるのだが、普通高校では数学であるが彼の見せてくれた教科書は台数とか幾何といった分けの分からない教科書であった。(汗)
俺たちは高校を3年で卒業して、ばらばらになってしまったが、彼は5年生まで高専に通った。そしてその後電気関係の職場に就職したと聞いた。
その後一度も会ったことは無いが、きっと今も元気にやっていることだろう。


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2016年10月13日

専門の時の同級生なんだが、名前がHさんだったかTさんだったか定かでない。
同級生といっても俺よりもいくつか上だった。
どこかでサラリーマンをやっていたけれど、やり直したいので専門に入って勉強していると言っていた。
確か奥さんだったか彼女だったかはちゃんといて、なんだかやさ男風でとっても格好良かった。
男の俺でもちょっと惚れそうな感じである。
それもそうだ、全国的にも有名だった族の頭もやったことがあると言っていた。クラスでもシャコタン系や斜眼系の人達も一目置く存在だったのは間違いない。
そういう人というのは、やはり他人を惹きつける何かを持っているものだ。そうでなければ何十人もの人間がその人間の下に集まるわけが無い。
ベースは横浜、ある夏の金曜日に「今晩集会があるんだけど○さん(俺)、一緒に行ってみない?」と誘われたこともあったけれど、その時はご丁寧にお断りした。
今考えるとそういう体験も中々できないから、一緒に交ざってくれば良かったなぁ。(笑)
学校では服装の規則は無かったので、色々な格好をした人達が登校してきていた。
俺のようにGパンとTシャツにビーサン、アロハにチノパン、ネクタイをしっかり締めてスーツ姿。
彼はいつもスラックスと白のYシャツ。しかもシャツの下は下着を着ないで腹にさらしを巻いている。彼曰く「シャキッとしていいんだよ」と。(笑) う〜ん、今考えても格好いい。
彼ももちろん一緒に卒業したのだが、その後の進路については聞いたことが無かった。
今ではきっと、皆から一目置かれるサラリーマンになっているに違いない。出世なんかとは到底遠い彼の世界で。
また、会ってみたいものだ。そして、あの当時はできなかった酒を飲みながら。


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2016年06月18日

彼女、どうして俺のことを知ってたのかなぁ。ほとんど俺とは接点が無かったはずなのに。
彼女は中学の時の1つ先輩である。確かテニス部。そして彼女はきれいだったので、先輩の間からはもちろん後輩からも憧れの女の子として映っていただろう。もちろん俺もきれいだと思っていた。
けれど、中学のときに話しをした覚えもないし、部活とか何か一緒にやったことも無かった。
彼女が高専に進学していたなんて、全然知らなかった。
俺が3年生の時の高専祭、バンドのメンバーとちょっとしたライブをした後に、そこに来ていた連中と小一時間のセッションを楽しんだ。(笑)
俺は高専生ではなかったが、活動していたバンドは元々は高専生が4人で始めたバンドだった。そこからベースが抜けたので、俺が入ることになった。そんなわけで高専祭でライブをすることになったのだ。
そのセッションの後、夜になってしまったのだが、せっかくだから高専祭を覗いていこうということになった。ほとんどのブースではその日の展示は終了していたが、いくつかのブースではメンバーが残って次の日の準備やらなんやらをやっていた。
その中の一つに彼女もいた。何を展示するブースだったか覚えていないのだが、あまり広い場所ではなかったのは確かだ。
ひょいと覗いたら、女の子が二人何かをしている。彼女たちが振り向いた瞬間に、俺は見覚えある顔だと思った。そしてすぐにその女の子が彼女だということを思い出した。
それとほとんど同じぐらいに、彼女は「○○君でしょ?」と俺の苗字を呼んだ。
彼女が中学を卒業してから3年、その当時の幼さは消えとてもきれいになっていた。


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2016年05月23日

俺から見ると、眩しいぐらいの都会っ子だったなぁ。
彼は専門の時の同級生。年は俺よりも一つ上で、東京の板橋から通学していた。
ちょっと長髪で身長が高く、どことなくべらんめぇな口調だった。
いつの頃から仲が良くなったのか、よく覚えていないのだけれど、車の話しとなると必ず彼がいた。(笑)
彼は卒業して就職したら、ダートを走りたいからということでランタボ(ランサーターボ)を買うと言っていた。ヒール&トゥーを教えてくれたのも彼だし、箱根や筑波、首都高もナビゲートしてくれた。そう言えば、荒川の河川敷でスピンターンを教えてくれたのも彼だったな。(汗)
元々は東京の有名な私立大を目指していたけれど、だめだったので専門に入ることにしたと聞いたことがある。就職先は一流電器メーカーの某レジスタ系の会社で、彼曰く「遊園地じゃねぇからな」と言っていた。順調に行っていればそこの電算室、今で言うシステム部門にいると思うが、「次の就職口を探さなくちゃなぁ」と卒業するときに言っていた。もちろん、彼一流の照れ隠しである。
ある時、彼と筑波周辺のダートサーキットで行われるモトクロスを見に行こうということになった。朝早くが辛いので俺は彼の家に泊まることにした。そこの親御さんに会ったかどうかは覚えていないけど、彼の割と広い部屋で寝たことは覚えている。
壁にはレースのポスターやカーディーラーに展示されている車のダミーナンバープレートが飾ってあった。隣の部屋には彼のお兄さんが住んでると言っていたが、その晩はいたかどうかは分からない。
夜中に小腹がすいたというので、インスタントラーメンを作って食べた。その時、彼はねぎを切ってお湯で煮ながら出汁を取ると言っていたが、そんなことをするんだと妙に感心した。(笑)
次の日、筑波の谷田部辺りに車で行ったのだが、開催場所がどうしても見つけられず筑波山を攻めて帰ってきた。往きは松戸のデニーズで朝飯を食ったこと、帰りの環七がすばらしく込んでいたことが記憶に残っている。
あれ、そういえば初めてのライブハウスPitINにJazzを聴きに連れて行ってくれたのも彼だったぁ。本田俊之がピアノでトリオ編成だったがドラムをつのだひろがたたいていた。
ちょっと緊張してチャージしてウィスキーをロックで飲んだんだったな。(笑)
なんだか卒業間際に同じクラスの女の子と付き合うことになって、一緒に学校から帰ったりしていたが、その後はどうなったかなぁ。
ちゃんと真っ当な社会生活を送っているのかなぁ。


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2016年04月22日

友達に聞いた話によると、彼女はシェーカー振っているらしい。
去年(2006年の夏)、本当に久しぶりに彼女の声を聞いた。行きつけの居酒屋のマスターの携帯に電話があって、夏休みか何かで実家に帰って来ていたらしい。
少し前にお父さんが亡くなっているので、ひょっとしたらご法事か何かだったかもしれない。
彼女とは小学校から高校まで同じ学校に通った。同じクラスになったのは小学校の5・6年と確か中学の2・3年も一緒だったと思う。
小学5・6年生ぐらいの時は、一般に男子に比べ女子の方が大人っぽい。彼女の場合も、もちろんその当時から大人っぽかった。
中学校の時、友達なんかと夜に徘徊するのが流行ったのだけれど、彼女もそのメンバーだったこともある。
それでも彼女は頭がよかったので、ちゃんと国立の大学へも行った。先生になるのかなぁと思ったけど、その当時のことはよく分からない。
ただ、彼女から高校時代にコーヒーカップをもらった・・・と、思う。
思うというのは、ロッカーに入っていて、直接もらったわけでもなく手紙が入っていたわけでもない。カップの入った箱だったか袋だったかに彼女の苗字がカタカナで書いてあった。
そのときは彼女の名前だとは気付かなかったのが、後になってやっとそう読めたのだ。(汗)
もし会うことがあったら、彼女が作ったギムレットでも飲みながら、そのカップのことを直接彼女に確かめたいと思っている。
あぁ、電話で話した時、彼女の携帯の番号を聞いておけばよかった。失敗したな。


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2015年11月07日

この前、一関の夏祭りの時に思い出した。
中学生の時の夏祭りでのことだった。俺と俺にギターを教えてくれた友達と二人で七夕飾りの中をうろうろしていた時、後ろからせかされるように「助けてぇ」と救いを求めてきた中学の同級生の女の子が二人。ちょっとこわめのお兄さんにナンパされそうになって逃げてきたらしい。
その場所から一緒に走って逃げたから、彼女たちの後姿を見ていた。浴衣姿で今思えばずいぶん可愛かった。(笑)
彼女のことは幼稚園の時から知っていた。幼稚園バスで帰り道に彼女を親戚の家に降ろしていく。当時不思議だったのは朝の幼稚園バスにはいないのに、帰りには降りていく。よく考えたら、朝は直接幼稚園に送ってもらっていたか自宅の近くからバスに乗っていたんだなぁ。(笑)
小学生の彼女は知らない。一緒のクラスにはなったことが無いか、ひょっとして転校して一緒の小学校では無かったのかも知れない。
高校は別の高校なのだけれど、俺の彼女と仲が良かったので学校の帰りなんかに話しもしたことがあった。
その頃、彼女の家は何か商売をやっていてお金持ちだと知った。お母さんは「バスのラーメン屋」でずいぶんとお世話になった。
お母さんから結婚したと聞いたような気もするんだけど、それがいつごろのことだったか良く覚えていない。一関の人に嫁いだのか、遠方の人に嫁いだのかも聞きそびれてしまった。
今でもよく覚えているのは、あのお祭りの日の浴衣の後姿と笑顔がよく似合っていた高校の時の制服姿だ。


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2015年10月14日

しーちゃん、近所ではそう呼んでいた。
俺の2つ下の女の子で、お父さんが国鉄関係ということで、家の近くの国鉄関係の人達がなぜか多く住む一角に住んでいた。
幼稚園が一緒だったせいもあって、小学校に上がる頃までは良く一緒に遊んでいた。なぜか家の物置小屋の屋根の下で泥水のお味噌汁を作って遊んだままごとを覚えている。(笑)
彼女の家とは他の人の比較的広い畑を挟んで違う通りにあった。その畑も良く遊び場になった。
そんな頃しか記憶が無いのだが、俺が22、3才の頃に友達と一関で飲んでいたら、彼女も友達何人かと飲みに来ていた。何か言葉を交わしたが、俺と一緒にいた友達の妹同級生ということもあって、そのことを話したのを覚えている。
その後は何度か家の近くで、彼氏と話しをしているところを見かけたりしたが、俺の仕事も忙しくなって通常の人では考えられないような時間に帰るようになってからは一向に見かけなくなってしまった。(汗)
偶然と言うのは面白いもので、この「あの人・・・」に登場した俺の仙台時代の別会社の知り合いの学生の時の彼女だったり、俺の友達の奥さんだった人と仙台時代に同級生だったり。
世の中は思ったよりも狭い。(笑)
仙台当時のあだ名が「ビッケ」だと聞いて、アニメのキャラのような髪の毛を想像したら、妙にはまっているなぁと思ったのである。
とてもきれいな彼女であった。

さて、今はどうしているのだろう。


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2015年09月04日

中学の3年になった時だろうか、隣の中学校から転校してきた女の子だ。
妙に覚えている姿は、俺のいた中学校とは違うザックを背負って登校してきていたという事と、そのザックが丈夫そうで格好良くて羨ましかった事だ。(笑)
当時で言うマシュマロカットを少し延ばしたような髪型だったなぁと、今振り返るとザックを背負った姿が思い出される。
家庭の事情でみんなと一緒に卒業することなく、また違う中学へ転校して行った。クラスメートでお別れ会を開いたのだが、俺は友達のギターを弾いて何かをやった記憶がある。もちろん俺は音痴なので演奏だけで唄いはしなかったはずだけど。
その後、ひょんなことから高校を卒業して再び交流を持つことができた。今のようにメールも無い時代なので、手紙を何度かやり取りしていた。
最初は確か山形から、次は東京の狛江で看護学校に通っている時だったかな。その頃初めて「トランキライザー」という言葉を知った。精神安定剤の事なのだが、俺が精神的にずいぶんと辛い時期にだいぶ助けてもらった。
実際にあったのは友達がスタジオライブを開いた時に、来てくれた時の事。お互いに大人にはなっていたが、中学の時の面影そのままだった。
その後、俺は仙台に引っ越してきたが彼女の実家は仙台から近くの築館と言う所に移っていた。やはり家庭の事情だろう。
休みで実家に帰っているという連絡をもらったので、車を飛ばして築館まで来て連絡してみた。電話に出たのは弟さんであった。残念ながら留守をしていると事だったけど、彼女との約束は出来ていたので何か事情ができたのだろうと想像した。
それ以来、彼女とは連絡が取れないままになっている。看護婦(看護師)にはなったと思うのだが、その後に結婚したかどうかは分からない。友達に聞いてもその後の彼女の情報は何も入って来ないままだ。


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2015年08月14日

ちょっと垂れ目でそばかすが可愛い、一つ年上の女の子だった。
どういう経緯で2:10に加入してきたのか分からない。多分彼女が行きつけの喫茶店に常連でやってきていた、2:10のメンバーにでも誘われてそのまま加入したのだろう。
圧倒的に男が多かった2:10の中でアイドル的な存在になっていったのは、そう時間がかからなかったし雰囲気もあったからだろう。
2:10の中ではしばらく庶務というか雑用みたいな事をやっていたのだけれど、同級生を連れてきてフォークデュオを組んでライブにも出るようになった。ギターを弾いていたが前から弾けたのか、2:10に入ってから弾けるようになったのか分からない。お世辞にもあまり上手というほどではなかったけど。
メンバーは苗字で呼んでいたが、アニメのキャラクターの苗字とかぶっていたので、俺はみんなが冗談であだ名として、その苗字を呼んでるんだとばかり思った。そういう訳だから加入から1年ぐらいはそれが本当だとは知らず、当然苗字も知らないままだった。
彼女は高校を卒業して東京に就職したのがだ、就職先は知らない。けれど場所が保谷市だったので、それがレンズメーカーのHOYAは地名から来ているのだと初めて知った。(いや、そう勝手に思っただけで、本当かどうかはよく分かっていない。)俺も高校を卒業した後に保谷市まで電車で行ってみた。(笑)
ちなみに保谷市は合併して西東京市になったらしいが、俺は未確認だ。(汗)
彼女とは俺が20才の時に、たむろしていた店でばったり合った。化粧は上手になったようだが、どちらかと言うと化粧はしない方が可愛い気がした。
今はおそらく結婚したんだと思うのだが、どこの誰と結婚したかも分からないしどこに住んでるのかも分からない。


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2015年07月15日

同じ学校には通ったことはないけど、同級生である。
知り合ったのは20才ぐらいの時だったろうか、行きつけの喫茶店にやはり常連になっていた彼と来ていた。
その彼とは高校の同級生だったらしく、高校生の時から付き合っていたようだ。そして何年かしてその彼と結婚してしまうのだが、離婚したという話は聞かないので今も夫婦でいるのだろう。
彼は一見、今でいうイケメンなのでずいぶんとモテている。それは多分今も変らないだろう。付き合っていた頃から彼女の方もずいぶんと泣かされた。
まぁ、それは他人の俺がどうのと口ははさめないのだけれど、俺や俺の友達と「いい女に認定」した関係もあって釈然としない。
23か24ぐらいの時に海に行ってすっかり日焼けして真っ黒になった彼女と会った。すごくカッコイイのである。そこで俺と俺の友達とで「いい女と勝手に認定」してしまった。確かそのことは彼女には伝えていないはずである。
ちなみにその時に認定したいい女は二人いて、どちらもやっぱり日焼けした姿が格好良かった。(笑)
結婚した後、しばらくしてから子供ができて今は小学校に通っている頃だろう。何年か前にホームセンターに夫婦で買い物に来ている時にバッタリとあった。
取り敢えずは元気そうにやっているのでホッとした。
あっ、そういえば彼女に作ってもらったサーフボードのケース、代金を踏み倒してしまった・・・すまない。


2015年06月12日

最近姿を見ないと思ったら、一関の元の場所に実家が無くなっていた。
一家で引っ越ししてしまったのかも知れない。(ちゃんと前の場所に実家はあった。この前確認してきたら表札も昔のままだった。)
そういうわけで、帰省しても一関には帰ってこないのだろうか。
彼といえば、中学の同窓会をきっかけに皆と飲むようになったのである。けれど付き合い始めれば2時、3時は当たり前でほとんど夜が明けるまで付き合う羽目になるのである。
彼にとっては年に何度かの帰省なのだから、昔の仲間と思いっきり羽目を外したいということなんだろう。しかし突き合わされるメンバーにとってはちょっと閉口してしまう。最後までまめに付き合っていたのは4、5人、多い時は15、16人いたんだけど。
彼とは小学校からの付き合いで、その昔はわんぱく坊主。ご両親は何度頭を下げて回ったのだろうと今更ながらに想像してしまう。小学校の友達はだいたい彼の被害者である。まぁ、いたずらっ子だったのである。高校に入っても無免許運転でどこぞのお宅の軒先を壊してしまったといって、俺が稼いだバイト代をそっくり貸したこともあった。もちろん後日、ちゃんと返してもらったのだけど。(笑)
そんな彼は高校の時に写真部に在籍していたらしい。そう言えば彼と堤防で写真を撮ったりしていたのを覚えているが、そのまま写真の道に入ってしまったのか。高校時代の彼の撮った農家の写真を今でも実家の壁に飾っているのは、やはりどこか感じ入るところがあるからなのだろう。俺のお気に入りの一枚である。
高校を卒業した後どこでどうまちがったのか、テレビカメラマンになっている。最後に会った時はフリーで仕事をしていると言っていた。扱うネタにより好みは無いのだろうが、その当時は政治とか社会物の絵を収録していると言っていた。
彼の帰省をネタにメンバーが集まって飲み会をするということが無くなってしまったが、また会える機会があるのなら、今度はゆっくりと大人の飲み会をしたいものである。


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2015年05月31日

小学校からの付き合いだった。中学生までは仲が良かった。
だいたい20歳ぐらいまではどんな感じで暮らしているのか、友達に聞けば風の噂のように流れて来た。
社会人になったら全然彼の情報がつかめなくなってしまった。誰に聞いてもどこにいるのかさえも分からないのである。
彼とは小学校3年の時に同じクラスになってからの付き合いだった。何をどうして遊んだのかは覚えていないけれど、良く彼と遊んでたと思う。馬が合うというのはあの事だろうな。
一度学校のグラウンドでふざけ合いをしていた時、彼の投げた消石灰(グラウンドにラインを引く時の白い粉)が目に入ったことがあった。目をはらせながら次の日に眼科に行ってホウ酸水で洗浄した事があった。ちなみにその日はピアノの日だったので眼科には行かなかった。
今どきであれば大問題になりそうな事だったけど、あまり気にも止めなかった。(汗)
中学校になった頃、彼も俺も自転車に夢中になって行った。彼はスピードを追求するロードレーサー、俺はのんびりとツーリングと言う具合だったけど、どちらにしても集まるのはいつもの自転車屋「あべ政サイクル」だった。(笑)
表の顔は自転車好きの中学生、裏の顔は深夜徘徊大好きなちょっと不良な中学生。。。(大汗)
彼も当然のように、この「あの人・・・」に何度か話しとして登場している深夜徘徊の主要メンバーである。
彼の部屋にはすぐに外に脱出できるような大きな窓があった。しかし特にそんな窓を使わなくても出入りは自由だった。(笑)
こっそりやるなんて似合わないと言う風に、堂々と玄関から出入りしていたのである。
そういえばホルストの「惑星」を初めて聴いたのは、彼の部屋だった。彼のお兄さんのYさんのレコードだったかも知れない。それに加えればマル・ウォルドロンの「Left Alone」を初めて聴いたのも彼の部屋だった。(笑)
彼は高校のクラブは吹奏楽と決めていたので、一緒に見学に行ってその日の内に二人ともホルンのマウスピースを加えていた。それは彼のお兄さんの影響だろう。そのクラブの先輩のコンダクターだった。
そんな彼がなぜか2年生ぐらいから変り始めた。いや、普通の高校生になったと言うべきなのだろうか。俺はその頃にはとっくに吹奏楽を止めて自分のバンドでベースを弾いていたから、どういう経過だったのかは知らない。
なんだか付き合いづらくなってしまったなぁと言うような印象であった。それも彼の生き方なのだから、俺からは否定はできないけれど。
高校を卒業してから、風の噂でどこかの大学のブラスバンドの指揮をしていると聞いたことがあった。やりたい事をやり通したということかも知れない。


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2015年04月29日

彼女は西多賀の病院に俺より数ヶ月後に隣の病室に入院して来た。
病名は俺と同じ大腿四頭筋短縮症。しかも俺と同じ一関の山目小学校。彼女の方が一つ年上だった。
その時俺は5年生の子供達が入っている病室、彼女は隣の6年生の病室である。
彼女の入っている病室には前から時々遊びに行っていたので、いつも普通に入って行ける。ただ彼女は出身と病名が同じということもあって、やっぱり他の子供達よりも親近感を覚えていた。
ただ、二人とも思春期の入りかけ、意識し過ぎてあまり楽しくおしゃべりをしたという記憶はない。
その後どっちが先に退院したのかはっきりしないのだが、順番からいっても俺の方だと思う。
どちらも退院して普通の小学生に戻ったわけだが、児童の多い小学校なので意識しないと彼女はどこにいるのかも分からなかった。それはお互いにそうだったろう。一度だけ学校で病院に入院していた時のことを話したのを覚えている。
低学年の頃から腐れ縁の同じクラスの友達に、彼女は近所に彼の近所に住んでいるということを教えてもらった。
俺が中学に入学した時は、当然ながら彼女は2年生になっている。
バスケット部に入り元気にボールを追い回している彼女を久しぶりに見た。俺は卓球部なので体育館の使用できる曜日がバスケ部とは違っている。そういうこともあって、彼女の姿を見る機会はあまり無くなってしまった。
そして彼女は中学校を卒業して高校へ。やがて彼女の記憶も俺の頭の片隅の方へ行ってしまった。
ただ、やっぱり俺と同じように手術の後が彼女の右足の大腿部にもあるのをはっきり覚えている。


2015年01月22日

高校の時のバンドのドラムス担当だった彼だ。
高校入学決まった時、高校生活に付いて教えてもらおうと下宿していた先輩の部屋に遊びに行ったのが、転落人生の始まりだったと笑っていた。(笑)
実際に彼の高校生活はかなり支離滅裂的な3年間だったのではないだろうか。
先輩の部屋でまずタバコを教えられ勉強する意欲を削がれる。次に変な同級生に捕まりどんどんヤン系の友達が多くなる。おまけに俺達のバンドに加入させられ(強制的に?)ドラムセットを買わされる。
それでも彼は頭もよかったのだろう、何しろ彼の中学からはたったの3人しか一関の進学校には来なかったのである。ようは悪くても彼の中学校では3番ぐらいの成績だったと言う事だ。
そういうわけで人付き合いもかなり広範囲にわたり、色々な関係の所に人脈を作って行った。
俺もその彼のおかげで一生縁の無いよな人とも友達になることができたし、おもしろい高校生活を送ることができた。
あぁ、もちろん高校時代の成績はいいはずはない。2年生の2学期の成績は俺の後ろに4人、彼の後ろには3人というものだった。(汗)。
そんな彼でもなぜか東京六大学の一つに入学した。視力が良かったということと、前後左右の受験者に恵まれたと言うのがもっぱらの噂だったが、その真偽はわからない。
同窓会のときには目の前にいたのにもかかわらず、全然気付かなくて一生懸命に探してしまった。それぐらい高校のときとは風貌が違っていたのである。その時はテレビでも1度や2度はCMを見たことのある大手不動産屋に勤めていたから、きっとそういう風貌になっていたのであろう。
あの同窓会から結構な時間が過ぎてしまったけど、その後はまた行方知れずのままである。
きっとどこかであの頃のように、器用にたくましく生きているであろうことは想像に難しくない彼であった。(笑)


2014年12月16日

そういえば彼女の名前を知らなかった。苗字しか知らなかった。
高校の時にバンド活動をやってた時に、同じサークルに所属していた1つ年上の女性である。
彼女は山崎ハコのような雰囲気をかもし出していて、自作の曲もハコの曲から大分影響を受けたみたいだった。
あるライブで俺のバンドに彼女をフューチャーして1曲だけやったことがある。彼女が書いた歌詞に俺が曲をつけたのである。
曲と言っても簡単なロックンロールである。「オレンジ・マーマレード」と言うタイトルの曲である。(笑)
実家はもう無くなってしまったが、平泉町の中尊寺の近くでドライブインを営んでいた。そして彼女には俺よりも2つ下の妹が俺と同じ高校に在籍していた。
平泉のお祭りになるとドライブインはすごく混雑するので、1度だけ駐車場整理のバイトを友達としたことがあった。お昼に出された賄いのカツ丼が、とても美味しかったのを思い出す。(笑)
俺が高校を卒業して一関を離れた後、彼女はどういう音楽活動をしていたのか知らない。所属していたサークルも空中分解に近い格好で消滅してしまったから、音楽活動をそのまま止めてしまったか、どこかへスライドして地道にやっていたかのどっちかだったろう。
けど、俺が久しぶりに彼女に会った時は、実家のドライブインの駐車場の片隅にカウンターとテーブル3つの喫茶店をやっていて、もう音楽はやっていないみたいだった。
仕事の関係で中々あの喫茶店には寄ってみる事もできなくなってしまったが、その後一度だけ行ってみる機会があった。彼女は相変わらず涼しい目をして微笑んでくれた。
あれから何年かして堤防用地になってしまい、ドライブインも喫茶店も姿を消してしまった。そして彼女との連絡も取れないままになってしまっている。


2014年11月23日

 大昔付き合ってた彼女の友達である。
当時、今は一関と合併してしまった花泉という所に住んでる友達がどういうわけか多かった。直接の同級生だったり、友達のその友達だったりするのだが、駅前の割と狭い範囲で彼・彼女は住んでいた。
そんな思いもあって、先日その街の写真を撮りに行ってきた。実家もほとんど知っているので、高校時代の事なんかを思いながら写真を撮っていた。
彼女のことは唐突に思い出した。別の友達、高校の同級生の事を考えていたのだが、その友達の実家の何軒か先に彼女の家があった。中学からずっと付き合ってた彼女と友達で、高校の時に一度だけ遊びに行ったことがあった。はっきりと間取りとか部屋の様子とかを思いだしたのだけど、天井にアイドルのポスターが貼ってあったのはその当時の流行だったんだろうか。
遊びに行った日は赤いセーターを着ていたように思うのだが、その記憶は一緒に行った彼女の事と混同しているかもしれない。けれど、そのNの笑った口元には八重歯がのぞいていたことは間違い無い。それと目の回りにはちょっとそばかすもあった。
あれからずいぶんと時間が経ってしまったが、高校卒業するまでは何度か話すチャンスはあったはずだ。さすがにその会話までは覚えていないのが残念だ。
高校卒業後は就職したのか、上の学校に行ったのかも知らない。ひょっとしたら何年か経ってこっちに帰ってきているかもしれない。
同級生なので結構なおばさんになっていると思うのだが、それでも相変わらず笑顔と八重歯が可愛いおばさんであって欲しいなぁ。

2014年10月20日

 地元沖縄での事です。
現在私は31歳になりました。あれは私が18才相手は19才
那覇市の国際通りで「映画館はどこにある?」と道を尋ねてきた人でした。
私の記憶だと3ヶ所あって、「どの映画が見たいの?」
その時、上映してたものがアダムズファミリーで、その映画館まで教えてあげようと思ったら「時間、俺にくれない?」「少し話せないかな」と言われ、喫茶店に入りいろいろ話しました。
今の私の記憶に残っている事は
  1.那覇空港で飛行機を誘導する仕事
  2.転勤?出張?沖縄に来る前に仕事上で事故(腹部に怪我)で休暇(休養)をとって那覇市を一人で。
  3.その会社の社宅?寮?住まいをしている。
  4.お互いに彼氏、彼女はいなかった事。
たーくさん話してすごく好印象でした。
その喫茶店でお互いの名前や出身地など教えあい「さすがに電話は無理だよね?」と・・笑顔でうなずいたんです。
その店を出て、さよならすると思ったら・・「お腹すいてない?」とステーキやさんへ即効・・・。
彼、私の手を引いて階段を上がっておしゃれな(ちょっと高級)店入っちゃったんです。
私お酒飲めない事も言えずに・・カクテルを注文。。。。
ナプキンをかけられ、私をリードしてくれた事が、すごく嬉しかったんです。
いろいろ話しているうちに心が動いてる事に気づきました。
食べ終えてカクテルは半分飲んで体が熱く火照っちゃって。。彼が会計済ませてくれて、階段を下りようとすると彼・・・私の腕を引っ張って階段の2個下に降りて「君可愛い!」と熱いキス。「好きになっちゃった!」
酔いが一瞬で覚めて階段を駆け下りて逃げようと・・・彼追いかけて「ごめん!でも本当だよ!ごめん」
それを振り切って帰ろうとすると「明日朝9時、君に声かけた場所で待ってる!ずっと待ってる!」
私、振り返ることなく帰ったんです。
でも、その言葉が気になって、翌朝11時にその場所へ行きました。
時間も遅れていたので、諦めながらもその場所に・・・彼はいなかった・・・。
「そうだよね、彼が待つ意味ないもんね、柱に寄りかかり反対側を見ると彼も柱に寄りかかって、同時に反対側(目の前に)彼が。。。いたの。
彼は笑顔で「来てくれたんだ??」私の手を握り「昨日はごめんなさい。」と頭を下げてくれたんです。
誠実な態度に心打たれて・・「今日も一緒にいてくれない?」の一言にうなずいちゃったんです。
また、お茶して、その彼に今日は人ごみは避けたいなぁと・・・タクシーを拾いどこだっけか・・・公園?っぽいと頃へ行きました。
人気のいないところで気づいた事が・・。
  1.彼と私の身長差が・・・約40センチ(苦笑)
  2.まともに顔を見れてなかったんです。福山雅治似でかっこいいと気づいた事
そこでは手をつないで歩いたの。時間が止まってるみたいで・・・居心地が良かった。。。。
また、タクシーに乗り国際通りへ・・・お互いに帰る時間・・。となると彼の握る手が強く。。。
タクシーを降りても手を握ったまま。。小さなビルに入ってエレベーターに乗り込み??
最上階へ・・・・何もない最上階で・・・。
熱いキスをしてきた。。。。
彼の体で私の抵抗する力は、意味もなく。。私は唇を噛んで「やめて・・・。」
彼は涙を流して「俺の事好きになれない?」
俺;「君が道案内してくれたときから・・しぐさや優しさに惚れた」
またキスしてきて・・お互いの物に触れ合おうと私の手を引っ張り彼のもの。
彼は私の・・・・触り始めた。。。
そのときに私涙して抵抗しなくなったの・・。彼は何を思ったのか・・・手を離し私から離れてエレベータを・・。
外に出て、お金を取り出し、タクシーを拾い私だけ乗せて「さよなら」と・・・・・・・・・・・・。
私一人乗りタクシーが動いた瞬間後ろを振り向くと・・・しゃがみ込んで泣いてる姿を最後に。
私も一人タクシーのなかで泣きじゃくった。。。

少女漫画のような出来事で・・・忘れらない人になってしまったのです。


2014年09月30日

 高校の時に付き合ってた彼と結婚したのかなぁ。
彼女とはどういうわけか中学の頃から知り合いだったらしい。(謎)
小中学校とも別の学校だったのだが、全然知らない仲では無かった。俺の友達も結構知っていたから、ひょっとして小学校は一緒で転校して行ったのかも知れない。
高校に入ってからはいつも通っていた喫茶店に彼女の方も良く来ていたし、バンド仲間達と一緒に遊んだりもしていた。そんなに遠い存在では無かった。
後ろ姿がすごく可愛くて彼女の後ろを歩くのが好きだったけど、前から見てもすごく可愛い女の子だった。
あぁ、線は細かったけど肩幅は結構広かったような記憶がある。
彼女の高校の文化祭に遊びに行って、彼女と話しなんかをしていると、追っかけの連中がメンチを切りにきたりした。(笑)
彼女は俺が高校3年生の時に加わったバンドのファンだったらしくて、俺が加わる前から良くそのバンドの連中と一緒にいた。時にはスタジオに入って練習する時も、その中にいたりもした。
そんな流れで、ピアノを習っていた彼女はキーボードとしてバンドにちょうど良く収まってくれた。もちろんライブも一緒にした事もあった。

2014年09月04日

 今ではきっといいお母さんになってるだろう。
彼女とは幼稚園と高校が一緒だった。幼稚園の頃は時々遊びに行った記憶がある。高校に入って久しぶりに会った彼女はとても笑顔の素敵な女性になっていた。
最後に会ったのはいつだったろう。思い出せないぐらいに昔かもしれない。覚えているのは学生時代に中央線西荻窪のホームで偶然会った時のことだ。高校を卒業して上京、やっと東京の風景にも慣れて来た頃。俺が頻繁に吉祥寺に通っていた頃だった。
取り立てて何を話したということはない。久しぶりだとか元気だとか、そんな普通のことだったと思う。けれど彼女はあの素敵な笑顔のままでいてくれた。
ひょっとして彼女はその当時、西荻窪とか高円寺あたりに住んでいたのかもしれない。今はどこに住んでいるのかも分からない。でもやっぱり笑顔の素敵な女性のままだろう。




2014年08月06日

 彼女とは短い期間だったが、一緒に良く遊んだ幼なじみだった。
高校の1年の時、朝学校の玄関で「○○さんですよね?」と話しかけられた。俺はその○○さんだったので、「そうです」と答えたら、「Kです、覚えてますか?」と問いかけられた。そのときはちょっと考えながら懐かしそうな顔をしたのだが、俺の記憶の中に彼女は居なかったのだ。
それでもやっぱり女の子から話しかけられたというのが気になってあれこれと考えてみた。そしたらあることが思い当たったのだ。
小さい頃、多分小学校の1年とか2年生の頃に実家のすぐ近くの家の敷地にあった貸家に住んでいたことがあった。もうその貸家は無くなってしまっているが、当時は一緒に遊んだりしたから、今でもその貸家の家の中の事まではっきりと思い出した。
お父さんはおそらく学校の先生だったんだと記憶していて、3年生の頃には隣の小学校へ転向してしまった。
その後中学生になった時に学校対抗の野球対抗試合か何かで会って、短い時間だったけど会話を交わしたのだった。
そんなことを彼女は覚えていてくれたのだ。
高校時代にその彼女とは一度も同じクラスになることが無く、あまり話もしたことは無かった。
同窓会のときに久しぶりに会った彼女は、同級生同士で結婚して教師になっていた。そしてすばらしい夫婦になっていた。



とりす
なかなか納得できる一枚が撮れなくて四苦八苦してるけど、撮りためた写真をブログでもアップ。


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